自動車国産化への飽くなき情熱! 大正時代の大衆車メーカー「白楊社」、関東大震災が無かったら日本を席巻したかもしれない
大正元年に設立されたある会社が、日本にとって初となる純国産大衆自動車の量産化に挑んだ。高く評価を受けたその1台は、なぜ昭和の表舞台から姿を消してしまったのだろうか。
製造撤退を余儀なくされた決定打
時代は昭和に入り、フォード対オートモ号の価格競争はさらに熾烈(しれつ)なものとなり、ほどなくしてGMも大阪に日本法人を立ち上げ、シボレー490のノックダウン生産を開始した。
そして1928(昭和3)年に至り、フォードは最新型のA型フォードをかつてのT型フォード日本導入時と変わらない安価での販売を開始。これによってオートモ号は完全に市場から駆逐され、白楊社は自動車製造からの完全撤退を余儀なくされた。
関東大震災が起きなかったら、状況は変わっていたことは間違いない。さらに翌昭和4年には世界恐慌が勃発したことを思うと、フォードやGMの日本進出も大幅に遅れたはずである。
そうすれば白楊社とオートモ号にも生き残る手段はあったのではないか。全ては歴史の流れの中に消え去った、国産自動車の物語である。
なお、近年にフルレストアされたオートモ号の実車は、国立科学博物館に収蔵されている。また豊川順彌とともに自動車設計製作に努力したスタッフからは、後にくろがねの日本内燃機や、豊田自動織機自動車部で活躍することとなる人物が輩出する。
そういった意味でも白楊社と豊川順彌が日本の自動車産業に果たした役割は極めて大きかったと言って良いだろう。