自動車国産化への飽くなき情熱! 大正時代の大衆車メーカー「白楊社」、関東大震災が無かったら日本を席巻したかもしれない

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大正元年に設立されたある会社が、日本にとって初となる純国産大衆自動車の量産化に挑んだ。高く評価を受けたその1台は、なぜ昭和の表舞台から姿を消してしまったのだろうか。

順風な船出、突如立ち込めた暗雲

 1924(大正13)年11月、オートモ号は大々的な発表会とともに一般にお披露目された。初の本格的な純国産車という点を高く評価され、瞬く間に100台余りの売り上げを記録した。

 購入者の多くは都内のタクシー業者ではあったものの、丈夫で運転しやすいその性能はおおむね好意的に評価された。

 翌大正14年には上海への初輸出も記録し、その評価は高まる一方だったと言って良いだろう。しかし同じ頃、東京市(当時)が関東大震災復興の過程で取ったとある政策が、オートモ号の未来に深刻な暗雲をもたらすこととなる。

 それは震災後の公共交通の改善を目的に、アメリカから大量のフォードTT型シャシー(T型フォードのトラック用強化型)を輸入、国内で質素なバスボディを架装したモデルを通称「円太郎バス」として運行し始めたことである。

 この動きに注目することとなったのは、他でもないフォードのヘッドクォーターである。

 それまでは商売相手としては対象外だった極東の小国が、巨大マーケットになる可能性を秘めていると判断したフォードは、大正14年には新たに日本法人を設立し、横浜でのT型フォードのノックダウン生産に着手することとなる。

 白楊社側は当初は、オートモ号とは販売価格も異なることから市場での競合相手にはならないと判断していたものの、フォードは日本市場の制覇を狙って大々的な値下げ攻勢を仕掛けてきた。そこで大きな打撃を受けたのが、他でもないオートモ号だったというわけである。

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