江戸のタクシー「町駕籠」 料金はいくら? どんなトラブルがあった? 知られざる歴史をたどる【連載】江戸モビリティーズのまなざし(9)

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江戸時代の都市における経済活動と移動(モビリティ)に焦点を当て、新しい視点からそのダイナミクスを考察する。

品川宿をめぐって起きたトラブル

『江戸名所図会』(天保年間刊)の品川宿。右下に町駕籠が見える(画像 : 国立国会図書館)
『江戸名所図会』(天保年間刊)の品川宿。右下に町駕籠が見える(画像 : 国立国会図書館)

 庶民が使う駕籠にはもう一つの種類があった。宿場町にある「宿駕籠」(しゅくかご)である。

 東海道第一の宿場である品川宿(現在の東京都品川区)で元文3(1738)年、宿駕籠をめぐってトラブルが起きた。

 宿駕籠は宿場町が運営するもので、街道筋でのみ営業していた。江戸市中の駕籠屋とは別個の存在だった。

 ところが、江戸の町年寄(江戸の町制を担当する役人の筆頭)が、品川宿の駕籠にも「札」(ふだ)を適用すべきであると言い始めたのである。「札」とは前出の焼き印のこと。品川宿の駕籠も、江戸市中と同じく許可制にせよというわけだ。

 品川宿は猛反発した。品川から江戸に向かう客は乗せても、帰りに江戸から客を拾うことはない。江戸に従う必要はないと突っぱねた。

 むしろ、江戸の駕籠屋が品川宿内で町駕籠を走らせており、たびたび品川の人足たちと衝突していた。実は品川の旅籠(はたご)には事実上の遊女屋が多くあり、江戸市中の者が品川まで駕籠を使っていたからだった。

 品川の駕籠は、遊びを終えた客を江戸まで送るだけで、帰りに客は乗せない。ゆえに焼き印は必要ない。もっともな理屈だろう。

 これは、昭和7(1932)年刊行の『品川町史』上巻(品川町刊)に掲載されている事件で、どのように解決したかの史料はないが、興味深いのは、営業エリアをめぐって縄張争いを演じていたことである。

 現代もタクシーには営業区域が定められている。江戸時代の宿駕籠にも、暗黙の了解のうえで街道筋という区域があった。しかし、江戸の駕籠屋がその区域を無視して、侵食してきたのである。

 江戸の役人たちは、宿駕籠が大きな利益を生む産業だったことに目をつけ、許可制を強要し、税を吸い上げようとしたのである。いつの時代にも起こり得る官民のあつれきが、この時代もあったといえよう。

●参考文献
・シリーズ三都 江戸巻/吉田伸之(東京大学出版会)
・ものと人間の文化史 駕籠/櫻井芳昭(法政大学出版局)
・時代風俗考証辞典 林美一/河出書房新社

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