江戸のタクシー「町駕籠」 料金はいくら? どんなトラブルがあった? 知られざる歴史をたどる【連載】江戸モビリティーズのまなざし(9)

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江戸時代の都市における経済活動と移動(モビリティ)に焦点を当て、新しい視点からそのダイナミクスを考察する。

吉原に行く時は運賃が高い変な慣習

吉原に行く客を乗せて走る町駕籠が描かれた『江戸八景 吉原の夜雨』(画像 : 国立国会図書館)
吉原に行く客を乗せて走る町駕籠が描かれた『江戸八景 吉原の夜雨』(画像 : 国立国会図書館)

 江戸時代は「里」(り)が距離の単位であり、道には一里塚があった。駕籠も1里(約4km)を目安とした料金を設定していた。1里につき約400文(もん)だった。

 江戸時代の通貨の価値は時代によって異なるため、現在の金額に換算するのは難しいが、ここでは便宜上、1両を約7万5000円とし、それを基準に他の通貨である朱(しゅ)、匁(もんめ)、文などの価値も算出した。

 そうなると、文は1文で約12円。400文だと約4800円である。これが、いわゆる「流し」の駕籠の料金だった。

 一方、町駕籠が頻繁に使われたのは、遊郭の吉原へ行く時だった。天保年間(1830~1843)では、日本橋~吉原の運賃が金2朱だったという記録がある(『国史大辞典3』吉川弘文館)。金1朱を約5000円とすると約1万円で、「流し」とは値段が著しく異なっている。

 他の記録(『江戸の旅と交通』学習研究社)でも日本橋~吉原は800文で約9600円であるから、9000円台後半から1万円だったと見ていい。

 あくまで推測にすぎないが、吉原に行く客は懐も温かいので、酒手(さかて/心づけ、チップのこと)を含めて割増料金だったのではないだろうか。

 ちなみに現在の日本橋から、吉原にあった台東区千束までタクシーを利用すると、2500円程度で済む。町駕籠の方がべらぼうに高い。

 吉原からの帰途は、往路(吉原まで行く)より低料金だった。日本橋に帰ると銀2匁。1匁=約1250円として、約2500円。なんと往路の4分の1で、現代のタクシーとほぼ同じ料金となる。

 吉原で散財した客は懐が寒いので、帰りは割安ということだろうか。

担ぎ手は極めて薄給

町駕籠の人足たち。大半は日雇いで、収入は低かった。(『江戸職人歌合』文化5年刊/画像 : 国立国会図書館)
町駕籠の人足たち。大半は日雇いで、収入は低かった。(『江戸職人歌合』文化5年刊/画像 : 国立国会図書館)

 また、担ぎ手の人足の収入は、運賃の7~8割を元締、つまり駕籠屋に収めることになっていたため、低かった。その日の売り上げにもよるが、少ない時は日当100~150文=約1200~1800円というケースもあったという。重労働のわりに極めて薄給だったといっていい。

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