官営圧力に屈せず! 信濃・甲斐の民間運送業、誇り高き「中馬」をご存じか【連載】江戸モビリティーズのまなざし(5)

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江戸時代の都市における経済活動と移動(モビリティ)に焦点を当て、新しい視点からそのダイナミクスを考察する。

農民が農閑期に始めた副業

1931(昭和6)年、残っていた扮装(ふんそう)などを着て再現した「中馬追いの図」。長野県下伊那郡で撮影された。(画像:『江戸時代に於ける南信濃』信濃郷土出版社/国立国会図書館)
1931(昭和6)年、残っていた扮装(ふんそう)などを着て再現した「中馬追いの図」。長野県下伊那郡で撮影された。(画像:『江戸時代に於ける南信濃』信濃郷土出版社/国立国会図書館)

 江戸時代の運送業は、廻船問屋や飛脚などがよく知られている。だが、内陸の信濃(長野県)、甲斐(山梨県)で独自に発展した「中馬(ちゅうま)」については、全国的にはあまり知られていない。

「馬」という文字を用いていることからもわかる通り、駄馬(だば。荷物運搬用の馬をこう呼んだ)を使って他人から依頼された荷物を運び、その対価として報酬を得る、現在でいえば「民間」の運送屋だ。

 信濃も甲斐も山岳地帯だったため、山や峠を越えて荷物を運ぶには馬が必須だった。一部の舟運はあったものの、信濃と甲斐では限定的だった。

 いつ誕生したかは不明である。だが、商品経済の発達によって出現した商売だったことを考えれば、「戦国時代末にはすでに成立していたのではないか」と、交通史研究家の増田廣實氏は述べている(『商品流通と駄賃稼ぎ』同成社)。

 発祥地は信濃の伊那地方が定説だが、古い文献には、甲州街道の八王子⇔江戸間を、農民が「手馬」(自分が所有する馬)で農産物を行商しているうちに、他人の荷物を運んで報酬を得たのが始まりという異説もある(『江戸時代に於ける南信濃』信濃郷土出版社)。

 農民が始めたという点は伊那も同じで、そもそもは家族を養うのが困難だった人々が、現金収入を得るため農閑期の副業として考案したものだった。

 最初は日帰り、または1泊ほどで、馬1頭に荷物を積んでいたという。ところが、そこに便乗して運送を委託する者が出てきたため、依頼に応じて遠くまで行くようになり、日数を1週間~10日に延長した。

 荷物の量も増え、最大で4頭(5頭だったという説もある)の馬に載せた。4頭で「一綱」という単位で、思いのほか多くの収入を得ることができた。中馬は次第に専業化し、職業とする人を「中馬稼ぎ」と呼ぶようになっていく。

 中馬は信頼度が高かった。まず、依頼主に積み荷代金の7~8割を敷金として支払う。そして、荷物を届けた先で敷金を精算し、残りの2~3割を受け取った。いわば保証金を払うことによって、信用できる取引先として認知されていったのである。

 また、当時は「伝馬制」という官営の輸送システムがあったが、中馬はそれとは異なる。伝馬制とは、馬に荷物を積んで宿場町まで行くと違う馬に積み替え、次の宿場町に着くと、また別の馬に積み替える制度である。宿場ごとに縄張りがあり、縄張りを越えたら馬を替えなければならなかった。しかも、そのたびに手数料を徴収され、時間も要した。

 中馬はそうした手間を一切省き、目的地まで直行便だった。このため、「通し馬」ともいう。積み替えの時間と費用が不要で、配達も早い。荷主のメリットは大きかった。

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