大坂はなぜ「天下の台所」と呼ばれたのか? 水運で繁栄した美しき水の都をひも解く【連載】江戸モビリティーズのまなざし(6)

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江戸時代の都市における経済活動と移動(モビリティ)に焦点を当て、新しい視点からそのダイナミクスを考察する。

「天下の台所」と呼ばれたワケ

堂島川と土佐堀川に挟まれた中州・中之島。『元禄九年新撰増補大坂大絵図』(画像:国立国会図書館)
堂島川と土佐堀川に挟まれた中州・中之島。『元禄九年新撰増補大坂大絵図』(画像:国立国会図書館)

 すると、全国の藩が大型船を就航させ、頻繁に安治川の河口から北上し、大坂市中に向かうようになった。船の目的は、積み荷の年貢米を蔵屋敷に運ぶことだった。

 安治川をさかのぼると、堂島川と土佐堀川の二手に分かれ、両河川は再び合流する。二つの川に挟まれていた中州・中之島に、諸藩の蔵屋敷はあった。

『大坂古地図むかし案内』(本渡章著、創元社)によると、蔵屋敷は1700年頃(元禄末)には大坂市中に95あり、そのうち40が中之島に集中していたという。米の一大集積地といっていい。

 大坂が「天下の台所」と呼ばれたゆえんは、ここにある。

中之島蔵屋敷と堂島米市場

中之島の蔵屋敷。舟から米俵を荷揚げしている。『摂津名所図会』(画像上)。米市場の取引の模様。『浪花名所図会 堂じま米あきない』(画像:国立国会図書館)
中之島の蔵屋敷。舟から米俵を荷揚げしている。『摂津名所図会』(画像上)。米市場の取引の模様。『浪花名所図会 堂じま米あきない』(画像:国立国会図書館)

 蔵屋敷の米はその後、現金に換える。換金する場所が堂島米市場だ(米会所ともいう)。

 米市場は中之島の対岸(大阪市北区堂島浜1丁目)にあった。現在は中之島ガーデンブリッジ北東詰に跡碑が立っている。

 米の換金はさまざまな業者が入り組んだ複雑なシステムだったので、ここでは割愛するが、要約すると仲買人たちによる入札制で現金に換え、入札が行われるのが堂島米市場だった。

 現物の米に限らず「帳合米(ちょうあいまい)」、つまり帳簿上で売買される取引もあった。現在でいう先物取引だ。当時にあって類のない先進的な市場だったといえよう。

 他にも、江戸と大坂を行き来して醤油・油・酒・木綿などを運んだ菱垣廻船(ひがきかいせん/ひし形に組んだ格子の装飾を施した船)や、日本海側各地や蝦夷(北海道)から特産品を運ぶ北前船もやって来た。

 大坂は無数の船が寄港する「水の都」に発展し、隆盛を極めるのだ。

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