日韓ショートクルーズが映す“対馬経済”の実態! 「韓国人観光客依存」と人口減少が浮かび上がらせる島の課題とは

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韓国・釜山と対馬を結ぶ高速船の再開で、対馬の韓国人観光客数は年19万人に回復した。人口2.5万人の離島経済は、江戸時代の朝鮮通信使以来、日韓交流に大きく依存しており、現代も国境の島の生き残りを映す。

国境島の外交と防衛

狩野安信『朝鮮通信使』大英博物館蔵。1655年・承応4年・孝宗6年(画像:I,PHGCOM)
狩野安信『朝鮮通信使』大英博物館蔵。1655年・承応4年・孝宗6年(画像:I,PHGCOM)

 それは現在に始まったことではない。江戸時代の朝鮮通信使が派遣されたのも、豊臣秀吉の朝鮮出兵で日本と朝鮮の国交が断絶したことがきっかけである。朝鮮との関係が深かった対馬藩は経済的に困窮し、国交回復のため奔走した。日本の国書を偽造するという「禁じ手」まで使い、両国の融和に尽力した。対馬藩という「クッション」があったからこそ、朝鮮通信使は200年間も派遣され続けたと言える。

 厳原を離れる日がやってきた。壱岐を経由して博多に向かうフェリーに乗り込む。船を見送る人の中には、体格のしっかりした迷彩服姿の男性が目立った。離任する同僚を見送りに来たのだろう。厳原には陸上自衛隊の対馬駐屯地がある。駐屯地は桟原屋形という対馬藩の居城跡にあり、すぐそばには「文化八(一八一一)年度 朝鮮通信使幕府接遇の地」という碑が建っている。

 厳原港の国内フェリーターミナルには「日本遺産国境の島」と掲げられていた。ここで思い出すのは、遥か古代の663年の出来事である。大和朝廷は百済再興のため朝鮮半島に援軍を送り、唐・新羅連合軍と白村江で戦った。しかし大敗し、外敵の侵攻に備えて対馬に防人(さきもり)を配置した。以来、対馬は「防人の島」と呼ばれ、古くから大陸や半島への窓口であり、国防の要衝となった。フェリーはその対馬から次第に遠ざかっていった。

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