広島と愛媛の「この場所」に、なぜ橋を作らないのか? Part2
広島市と松山市を結ぶ架橋計画「Qルート」は、瀬戸内海を横断する新たな大規模インフラとして、地域経済を活性化させる可能性を秘めていた。1990年代に提案され、300万人の沿線人口を見込んだこの構想は、交通の利便性を飛躍的に向上させることを目的としていたが、現在その実現は遠のいている。
「Qルート」実現で広がる300万人市場
その背景には、当時国レベルで検討されていた
「第二国土軸構想」
がある。この構想は、東京圏と太平洋ベルト地帯への一極集中を解消し、大規模なインフラ投資によって地方開発を進めることを目的とした国家戦略だ。この構想の一環として計画された重要プロジェクトのひとつが、以前の記事「四国と九州の「この場所」に、なぜ橋やトンネルを作らないのか?」(2024年8月31日配信)でも紹介した豊予海峡の架橋である。
現在では単なる計画に終わったこのプロジェクトだが、当時は事業化が現実的に期待されていた。1993(平成5)年10月には建設省が本格的な技術検討に着手したことが報じられ、四国や九州の自治体では架橋後を見据えた具体的な開発計画まで検討されていた。
「Qルート」構想の盛り上がりは、こうした全国的な開発熱の高まりを背景にしていた。関係者の試算によれば、「Qルート」が実現すれば、沿線人口は
「約300万人」
に達する。さらに、このルートが豊予海峡の架橋と接続されることで、高知県や大分県までを含む広域経済圏が誕生するという壮大なビジョンが描かれていた。
この構想を後押ししたのが、当時の広島県の積極的な地域開発の姿勢だ。特に、広島市が1994年にアジア大会を開催し、翌1995年には「被爆50周年」を迎えるという象徴的な時期を控え、被爆都市としてのイメージを超える新たな都市像を打ち出す原動力となっていた。
この機運を背景に、広島県ではさまざまな大型プロジェクトが進行していた。1993年11月には広島新空港(現在の広島空港)が開港し、1994年8月にはアストラムラインが開通。広島市と県全体は、被爆都市のイメージから脱却し、積極的な都市開発を推進していた。