映画『ドライブ・マイ・カー』に登場 往年の名車「サーブ900」が物語るクルマ社会“一つの終焉”

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濱口竜介監督の映画『ドライブ・マイ・カー』が第94回アカデミー賞で国際長編映画賞を受賞した。物語の中心的役割を担う「クルマ」の描かれ方に、過去から現代、未来へと移ろう人々と車の関係を見て取ることができる。

所有から共有へ 変化するクルマの意味

 一方、専属ドライバー・渡利の場合、クルマの運転は母親にほとんど強いられるようにして覚えたものである。あくまで自分以外が所有するクルマを自分以外のために運転している。

 化粧、服装、表情のそっけない彼女は、演出・演技を通じて自分をコントロールすることへの関心が薄いように見える。その意味で、悠介の対極にある。悠介の「自己のためのクルマ」と渡利の「他者のためのクルマ」がサーブ900を通して交差するなかで、互いの変化がもたらされる。

「マイカー」や「自家用車」というよく使われる言葉は、クルマの利用と所有が「個人」や「自己」に帰属していることを表現している。けれども「私のクルマを運転して(Drive my car)」というタイトルは、その利用や所有が「関係」や「他者」にも開かれていることを示している。

 加齢や病気に見られるように、自分を自在に表現し、操作できる「ひとりの主体」であることは、それほど堅牢(けんろう)ではない。

 高齢化率が30%に迫り、65歳以上の運転者による交通事故の構成比も高まり、高齢者の免許返納が話題となる現代社会において(高齢者だから危険であるわけではないが)その不安は切実なものになるだろう。

「自動車を所有し、運転できる ≒ 自分を演出し、演技できる」ことの先で、操作しえない自己が表れるまま、他者に身を任せ、それを受け渡すこともできる――。『ドライブ・マイ・カー』はそのことを示している。

 大きなリスクもコストもある高速移動するクルマを、みずから購入・維持し、自在に操作する資格・能力を持つこと。それが「一人前の大人」(あるいは「男らしさ」)を表現する、20世紀の自動車の文化的意味のひとつだったとすれば、映画『ドライブ・マイ・カー』はその曲がり角を示している。

 ただし、それは「クルマの終わり」ではない。