映画『ドライブ・マイ・カー』に登場 往年の名車「サーブ900」が物語るクルマ社会“一つの終焉”
主人公はなぜ、他者の運転を拒んだのか
いずれにしても悠介にとってのサーブ900は、ただの乗り物以上の存在である。それは、みずからの個性を表現し、それを操作しうることで「ひとりの主体 ≒ 大人のおとこ」であることを感じさせてくれる。また、その内部は、妻の音が吹き込んだセリフを流し、覚えることで徐々にその役になるパーソナル・スペースでもある。
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妻・音が乗ることで家庭というプライベート・スペースにもなるが、あくまで主導権(運転手・俳優)は自分にある。そして、音の死後も、彼女が吹き込んだ役のセリフを響かせ、包まれることができる「繭(まゆ)」になっている。
ただし、それは音の声ではあるが、彼女自身の言葉ではない。その妻が自分以外の男と関係を持っていることを察知した後に逃げ込む先でもあることを考えると、クルマは(演じられる役同様)自分を守る「自我の殻」でもあるのだろう。
『ドライブ・マイ・カー』のストーリーは、そのような「自我の殻」としてのクルマに次々と他者が乗り込み、それを他者に委ねていくプロセスとして見ることができる。
クルマという「自我の殻」にヒビが入るきっかけのひとつは、加齢とともに多くなる緑内障による事故である。事故の後、悠介はしぶしぶ妻に運転を委ねることになる。さらに、妻が亡くなって2年後の演劇祭でも、手配された専属ドライバー・渡利みさきに運転を任せることに強く抵抗している。
自分自身を、そしてクルマをうまく操作できないことは「ひとりの主体 ≒ 大人のおとこ」であることを毀損し、妻の記憶が宿る心地よい繭を破ると恐れているのかもしれない。
ただし、高速移動を可能にするクルマというテクノロジーは、人間の身体をはるかに超えたパワーを持っており、コントロールを失えば持て余す。その点で言えば、抑制の効いた悠介(の演技と運転)に対して、音との親密な関係をうかがわせる若手俳優・高槻耕史のそれは暴走気味だ。
高槻は、みずからのエネルギーを操作し切れていないように見えるし、そのことによって事故や事件へと至る。けれども、サーブ900にずけずけと乗り込み、悠介の「自我の殻」を壊し、死んだ妻に向き合わせるのもまた、そうした高槻のコントロールしえない勢いである。