長崎・熊本・鹿児島の「この場所」に、なぜ橋を作らないのか?
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架橋実現で変わる天草経済

海上交通に頼らざるを得ない状況は、島々の経済発展に大きな障壁となっていた。特に問題だったのは、豊富な漁場を持ちながら、漁獲物を迅速に本土市場に流通させることが難しかったことだ。
生活必需品や郵便物も海運に依存していたため、物資の安定供給が非常に不安定だった。海が荒れると物資が届かなくなり、新聞の朝刊も毎朝船で運ばれるため、島内での配達は昼過ぎになってしまった。
そんな天草に橋を架けることを実現したのは、地元出身の3人、
・旧大矢野町長の森慈秀氏
・旧龍ケ岳町長の森國久氏
・元県議の蓮田敬介氏
だ。最初に天草諸島と本土を橋でつなぐ構想を提唱したのは森氏で、彼は天草郡湯島村(現・上天草市)出身。尋常小学校を卒業後、上海に渡り財を成した。帰郷後、熊本県会議員になった森氏は、1936(昭和11)年に県議会で
「天草島の産業を振興し文化を促進し、国際観光客の誘致を全うするには、大矢野島と三角港に橋りょうを架設し、九州本土の一部たらしむるにある」
と演説し、架橋の必要性を訴えた。
しかし当時、数百mの橋を海上に架けるという構想は現実味がなく、森氏の提案を聞いた人々は笑い、
「山師」
とまでののしった。最近はあまり使われなくなった「山師」という言葉だが、これは知識や経験が足りないにもかかわらず、大きな夢や計画を持ってそれを実現しようとする人を揶揄する意味で使われる。
これに嫌気が差した森氏は県議を辞職し、戦後に大矢野町長に就任。建設大臣などに架橋の必要性を訴え続け、
「架橋男」
と呼ばれるようになった。この動きに、龍ケ岳町長の國久氏も賛同し、当時県議だった蓮田氏は「五橋構想」の実現に向けて、過去の台風の記録や海底の様子を丹念に調査し、構想を実現可能なものに進化させていった。
こうした地元の熱意のもと、1966年9月に天草五橋が開通し、天草諸島は本土と結ばれることになった。これにより経済状況は一変した。それまで福岡までが精いっぱいだった生鮮野菜の販路が拡大し、関東圏にも輸送できるようになった。これを契機に、天草のかんきつ類は全国的に知られる産物へと成長していくことになった。また、南部の牛深で水揚げされた魚も、その日のうちに大都市圏へ輸送できるようになった。