長崎・熊本・鹿児島の「この場所」に、なぜ橋を作らないのか?

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「三県架橋」構想は、天草の交通アクセスを劇的に改善し、経済活動を促進する鍵となる。歴史的文化が根付く天草市は、漁業や商業が活発だが交通の不便さが課題。橋の建設により、観光客の増加や地元産品の流通が期待され、地域経済のさらなる発展が見込まれる。

離島の人口増加と航路

富岡~茂木航路の長崎側にあたる茂木港は長崎駅前からバスで20~30分程度。小型船のため欠航も頻繁。2020年撮影(画像:碓井益男)
富岡~茂木航路の長崎側にあたる茂木港は長崎駅前からバスで20~30分程度。小型船のため欠航も頻繁。2020年撮影(画像:碓井益男)

 天草での近代的な海上交通は1884(明治17)年に始まった。この年、富岡と長崎(茂木)間に汽船による定期航路が開設された。富岡から八代間の航路も翌年に開設された。

 その後、1899年には九州鉄道(明治時代に存在した私設の鉄道会社で、九州で初めて鉄道路線を開通させた)が三角港までの路線(三角線)を開業した。三角港は1884年から国策として開発され、当時としては画期的な貿易港だった。九州鉄道がこの港まで路線を延ばしたのは、三角港を拠点に島原や天草との海上交通網を構築するためだった。

 戦後までの間、天草諸島は離島であり、多くの航路が外部と接続されていた。明治以降に開設された航路は多数あり、記録が不明瞭なものもあるため、正確な総数は不明だ。九州運輸局の資料によると、1967(昭和42)年時点で天草管内には

・47の事業者
・57の航路

を運航していた。道路事情が悪いなか、なぜこれほど多くの航路が必要だったのか疑問に思うかもしれない。その理由は、天草諸島が

「非常に多くの人口」

を抱えていたからだ。島原の乱以前、天草諸島の人口は約3万5000人と推定されているが、乱の後に大幅に減少したものの、他藩からの移民が増え、徐々に人口が回復した。1870年には16万7231人に達し、ピークの1950年には24万750人にまで増加した。江戸時代から戦後にかけて耕地面積が少なく、食料も限られる状況で人口が増え続けていた。このため、天草諸島では

「からゆきさん」

に代表される出稼ぎが活発に行われるようになった。また、増え続ける人口を支えるために、食糧や日用品の流通も活発化した。さらに、天草の特産品である陶石(陶磁器の原料)の国内他地域への輸出も盛んになり、陶石は江戸時代から重要な産業のひとつだった。加えて、明治時代には炭鉱の開発も始まった。

 こうした経済活動により、道路が貧弱な天草諸島では海上交通の重要性がますます高まっていった。

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