荒川の水運が江戸経済を支えた理由とは? 1629年の大工事と物流革命の舞台裏【連載】江戸モビリティーズのまなざし(23)
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川越舟運の船頭は世襲
荒川の水運は、江戸にとって大切の水路をもうひとつ育んだ。新河岸川を使った「川越舟運(しゅううん)」である。
新河岸川は埼玉県川越市の東にある伊佐沼を起点とした全長34.6kmの河川で、かつては現在の埼玉県和光市新倉で荒川に合流していた(明治末~昭和初期に改修され現在は違う流路となっている)。
この川を水運として使うようになったのは1638(寛永15)年、川越の仙波にある仙波東照宮が火事によって焼失し、再建のため資材を江戸から運んだことが始まりだったという。
東照宮は徳川家康を祭った神社で、特に仙波は久能山・日光と並ぶ「三大東照宮」とされていたため、焼失は看過できなかったのだ。
その後、川越藩主だった松平信綱が、新河岸川の水運によって江戸と川越を連携させ、同地をもっと繁栄させようと計画し、正保年間(1644~)に整備を始めたとされる。
信綱は新河岸川に「九十九曲り」といわれるほど屈曲した箇所を造る工事を敢行し、これによって船の運航に適した水量を維持しようとした。流路をできるだけ蛇行させるのに腐心したという。
こうして完成した水路に、のちに「川越五河岸」と呼ばれる扇・上新・牛子・下新・寺尾の河岸が設置され、水運の拠点として栄えていく。
川越舟運の船は江戸までの運行日数によって、「並船」「急船」「飛切(とびきり)船」などに分かれていた。並船は江戸まで往復7~8日の定期船の荷船。急船は3~4日で往復し、飛切船は特急だった(『川越舟運』斎藤貞夫/さきたま出版会)。
船荷は米俵なら250~300俵まで。麦・穀物、さつまいもなどの農産物や木材もあった。江戸からは肥料や塩を積んで帰ってきた。
荷を積まない乗客専用の屋形船「早船」もあった。早船は天保年間(1831~)から定期便となり、夕方に出発し新河岸川→荒川→隅田川と経由して明け方に江戸の浅草に到着することから、「川越夜船」といわれ庶民に人気だった。
さて、1895(安政6)年の記録によると、新河岸川沿いには83人の船頭がいたとある(斎藤家文書『船数取調御船方書上控』)。
前述の斎藤貞夫は、一人前の船頭になるには「棹(さお)で三年、櫓(ろ)で三月」といわれるほど、技術習得に年月を要したという。このため、船頭は主に世襲だった。
棹(さお)と櫓(ろ)の両方を使いこなすのは、新河岸川では棹を駆使し、荒川に出ると櫓でこぐためだったという。
船頭には順守すべきルールも多くあった。「公用(幕府・大名に届ける荷物)の優先」「船道具の点検」「火の用心」「荷物の盗難の取り締まり」「難破した際の対処法」など、多岐にわたっていた。
こうした規定は条文化されていた。…ということは、違反した場合は何らかのペナルティーがあったと考えられる。
船頭は誰でもできる容易なものではなく、熟練と慎重さを要する“職人”の仕事だったのである。
●参考文献
・近世関東の水運と商品取引 丹治健蔵(岩田書院)
・上尾歴史散歩(上尾市)
・川越舟運 斎藤貞夫(さきたま出版会)
・利根川荒川辞典 利根川文化研究会編(国書刊行会)