荒川の水運が江戸経済を支えた理由とは? 1629年の大工事と物流革命の舞台裏【連載】江戸モビリティーズのまなざし(23)
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江戸時代、荒川の水運は年貢米や特産品を江戸に運ぶ重要なインフラで、流域の経済を支えていた。1629年には西遷工事が行われて流路が変更され、1669年には運賃の規定も整備された。高尾河岸から江戸までの距離は33里で、米や酒が頻繁に運ばれ、商人たちは多様な商品を取り扱っていた。この水運は日常生活に欠かせない存在であり、地域の繁栄に大いに寄与していた。
江戸を支えた水運

荒川の水運は現在の埼玉県から年貢米や特産品を江戸に運び、江戸からは肥料や塩を積んで戻ってくる、流域の人々にとってなくてはならない存在だった。
荒川は山梨・埼玉・長野の県境にある甲武信岳(こぶしだけ。標高2475m)を源流点とし、埼玉を南東に横切って東京湾に注いでいる。
しかし、江戸時代初期は現在とは違った流路だった。
かつての荒川はもっと東にあり、利根川と合流し江戸(東京)湾へ至っていた。これを1629(寛永6)年、大里郡久下村(現在の埼玉県熊谷市)で流路を西へと変える瀬替工事を行った。のちに
「荒川の西遷」
と呼ばれる一大事業である。指揮をとったのは、江戸幕府の関東代官・伊奈忠治(ただはる)だった。
荒川西遷より少し前から、利根川の流れを東に瀬替する工事も開始されていた。これが「利根川の東遷」だ(「江戸を支えた水の道! 「利根川水運」の興亡と商業革命とは【連載】江戸モビリティーズのまなざし(22)」2024年7月7日配信分参照)。
東遷と西遷で利根川と荒川が分離されたことによって、水害がこれまでより抑制され、また両河川を利用した水運が発達していく。