江戸を支えた水の道! 「利根川水運」の興亡と商業革命とは【連載】江戸モビリティーズのまなざし(22)
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江戸経済の牽引力

今回は、江戸の経済発展に大きく貢献した「利根川水運」の役割や運航システム、水運に従事していた人々の仕事や暮らしなどを見ていきたい。
利根川は群馬県に水源を持ち、関東平野を西から東へと縦断する日本最大級の河川だが、16世紀末までは現在と違った流路だった。
かつては群馬から南東に向けて流れ、東京湾に注いでいた。だが、江戸時代初期から複数回にわたって大規模な河川改修事業を行い、川の締め切りや流域の開削を繰り返し、順次東へと流路を移し替え、人工的に千葉県の銚子に注ぐルートへと変えたのである。
本流を東に移動させたこの一大事業を「利根川東遷」といい、完成は1654(承応3)年だった。
東遷の目的は、江戸周辺の低地が洪水の被害を受けやすかったため、水害を防止することにあった。流路変更は下流域の治水に効果をもたらし、新田開発が盛んに行われ、農地と食糧生産も増加した。
さらに、利根川を使った巨大な交通網も、関東平野に形成された。その結果、江戸は人口100万人といわれる、世界有数の巨大都市へと成長していく。利根川水運が江戸発展に寄与した役割は、計り知れなかった。
しかし、ひと口に水運といっても、どこを拠点に、誰が、どのような働き方で担っていたかは、あまり知られていない。そこで「どこ」「誰」「どのように」に焦点を絞り、利根川水運の特徴を見ていきたい。
水運の拠点だった「河岸」

まず、「どこで」――水運の拠点は河岸(かし)だった。
河岸とは川の湊(みなと)のことで、船の発着場や荷揚げ場などを備えていた。河岸の呼称は信濃では「河戸」(かわど)、大坂の淀川では「浜」など、さまざまだったという(『河川に生きる人びと 利根川水運の社会史』川名登/平凡社)。
1690(元禄3)年に作成された『河岸々々運賃諸改帳』では、利根川の本流だけで大小約80近い河岸が確認できる。しかもこれらは本流沿いのみであり、支流まで含むと、どれだけの数か正確にわからない。
河岸から各地に搬送される物資は、当初は米俵だった。各地で徴収された年貢米を、河岸から搬出し船に載せたのである。したがって利根川の主要な河岸には、米蔵が建っていた。
一方、利根川の河口が千葉県の銚子にあった関係で、東北諸藩が幕府に納入する米が太平洋を南下し、銚子に集まった。そこからさらに利根川をさかのぼり、江戸へと運ばれたのである。