荒川の水運が江戸経済を支えた理由とは? 1629年の大工事と物流革命の舞台裏【連載】江戸モビリティーズのまなざし(23)

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江戸時代、荒川の水運は年貢米や特産品を江戸に運ぶ重要なインフラで、流域の経済を支えていた。1629年には西遷工事が行われて流路が変更され、1669年には運賃の規定も整備された。高尾河岸から江戸までの距離は33里で、米や酒が頻繁に運ばれ、商人たちは多様な商品を取り扱っていた。この水運は日常生活に欠かせない存在であり、地域の繁栄に大いに寄与していた。

河岸から運ばれたさまざまな荷物

溪斎英泉画『木曾街道 蕨之驛 戸田川渡場』に描かれた中山道の第2の宿場・蕨宿の戸田川渡場。戸田川とは荒川の戸田付近の別称(画像:国立国会図書館)
溪斎英泉画『木曾街道 蕨之驛 戸田川渡場』に描かれた中山道の第2の宿場・蕨宿の戸田川渡場。戸田川とは荒川の戸田付近の別称(画像:国立国会図書館)

 荒川流域にはどのような人々が集まって水運に従事していたのか、規模の大きかった河岸を例に解説しよう。まず高尾河岸である。

『新編武蔵風土記稿』では高尾から江戸までは33里(1里約4kmとして132km)、積む荷を取り扱う河岸問屋が3軒あったとある。運賃は江戸まで6日を要して米100石を運ぶ場合、その3.1%(『近世関東の水運と商品取引』丹治健蔵、岩田書院)。

 1石を現在の米の価値に換算して約5万円(『江戸の家計簿』磯田道史監修、宝島社)とすると、100石は約500万円、3.1%だと15万5000円となる。

 運賃を払うのは、年貢米を納める農民たちだった。高尾の近隣には20か村に及ぶ集落があり、かつ東に鎌倉街道と中山道が通っていたため、陸路を使って農村から高尾まで米を運び、問屋に運賃を払った。問屋はその際の付帯事項として、米俵がぬれたり緩んだりしないように念入りに取り扱うなどを誓約した。

 このように、荒川の水運が盛んになった背景には、荒川流域の街道に多くの農村が隣接するメリットがあったことがあげられるだろう。

 また、船荷は米に限らなかった。1854(安政元)年には大量の酒を船積みした記録がある(『酒井家文書』鴻巣市編さん室)。荷主は笠原村(埼玉県鴻巣市)の常盤屋藤兵衛という商人で、藤兵衛は酒のほかにも奈良漬や酒かすなども出荷している。そして江戸から戻るときには、四国産の塩を船に積んできた。

 次にさらに下流にあった平方河岸を見てみよう。ここでは染料として使われる紅花(末摘花)が多く船積みされた。紅花は平方の特産物だった。

 平方の紅花は秋に栽培を開始するのが特徴で、対して他地域は春からだった。「早場」「早庭」(どちらも「はやば」と読む)の紅花と呼ばれ、早く収穫できたことから京都の染め物問屋から注文が殺到し、高値で取引できた。

 価格は一駄(馬1頭に負わせる荷物の単位)で80両。他地域は51~60両だったという(『上尾歴史散歩』上尾市)。そうした紅花は江戸に着くと、さらに海上輸送で大坂に運ばれ、その後、京都に行った。

 なお船運は天候に左右されやすいため、予定通りに行かないこともあった。平方に残る記録には、通常は5~6日で江戸まで運べるが、大雨で増水したときは20日を要するので了承してほしい旨なども付記されている(『上尾市文化財調査報告書第九集』)。

 このほか、平方より下って三つ目の河岸・羽根倉(埼玉県志木市)では竹・蒔(まき)・醤油などの日用品を船積みし、江戸で肥料・石材・塩などを積んで戻ってきた。

 ここにある、江戸から帰ってくる際の荷物のひとつ「肥料」はとても重要だ。荒川流域の河岸は、江戸から戻る船に積まれた肥料を各地に輸送する中継 地にもなっており、例えば戸田河岸(埼玉県戸田市)には「肥船」と呼ばれる肥料専用の輸送船が常備されていた。近隣の村まで含めると60艘(そう)近くの肥船があったという(『武蔵国郡村誌』)。

 船で米や特産品を江戸に運び、塩や肥料を積んで戻ってくる。荒川の水運は流域に住む人々にとって仕事であると同時に日用品も手にできる、なくてはならない存在だったのである。

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