日本最大の商業地「日本橋」 江戸の物流拠点としても大きな役割を果たしていた!【連載】江戸モビリティーズのまなざし(20)

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江戸時代の都市における経済活動と移動(モビリティ)に焦点を当て、新しい視点からそのダイナミクスを考察する。

日本橋の架橋は1603年説が一般的

『名所江戸百景 日本橋雪晴』歌川広重画。雪景色の日本橋を描いた浮世絵。冬にも関わらず、多くの小舟が行き来しているのがわかる(画像:国立国会図書館)
『名所江戸百景 日本橋雪晴』歌川広重画。雪景色の日本橋を描いた浮世絵。冬にも関わらず、多くの小舟が行き来しているのがわかる(画像:国立国会図書館)

 今回は、江戸時代最大の商業地として栄えたお江戸日本橋が、当時の物流に果たした重要な役割について解説したい。

「日本橋」の名称の由来は、はっきりとわかっていない。慶応義塾大学教授だった池田弥三郎は、江戸の町の建設が始まった慶長期(1596~1615)、丸太を2本架けただけの粗末な「二本橋」があり、それが日本橋に転嫁したとのユニークな説を提唱したが、確証には至っていない。

 架橋は1603(慶長8)年という説が一般的だ。随筆集『慶長見聞集』も同年の架橋と記しており、「日本橋」の名称が初めて登場するのも同書だ。もっとも、この書に記された橋は木造の太鼓橋(太鼓の胴のようにアーチを描いた橋)だったと考えられる。

『慶長見聞集』はまた、「天よりやふりけん地よりや出でけん、諸人一同、日本橋と呼びぬる」と、天地からわいたように、いつのまにか日本橋と呼ばれるようになったと記している。

 翌年の1604年には江戸幕府が五街道の起点、つまり全国各地に続く道のスタート地と認定した。そうなった以上は、国(日本)の文字を冠した橋といっても、看板に偽りはなし――皆、そう考えたのだろうか。

 架橋当時の規模は不明だが、1618(元和4)年には三十七間四尺(約68m)だったとの記録がある。1806(文化3)年には、二十八間(約60m)になった。改修するたびに橋の下を流れる日本橋川を埋め立て、次第に川幅を狭くし、同時に岸に市場や倉庫を建設していったのだろう。なお、現在の橋は1911(明治44)年に改修したもので、二十七間(約49m)である。

 川が水運、岸に立つ施設が物流と市場を担い、商業の一大拠点として発展していった。

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