江戸時代に架けられた隅田川「江戸四橋」 その知られざる“豆知識”を披露しよう【連載】江戸モビリティーズのまなざし(19)

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江戸時代の都市における経済活動と移動(モビリティ)に焦点を当て、新しい視点からそのダイナミクスを考察する。

込み入った両国橋の完成年

『名所江戸百景 両国橋大川ばた』は、夏の両国橋に夕涼みにやって来た庶民の姿を描く(画像 : 国立国会図書館)
『名所江戸百景 両国橋大川ばた』は、夏の両国橋に夕涼みにやって来た庶民の姿を描く(画像 : 国立国会図書館)

 今回は、隅田川に架けられた「橋」がいつ、どんな狙いを持って建設されたかをひも解き、都市において「橋」が担う役割を考えてみたい。

「江戸四橋」という言葉がある。江戸時代に隅田川に架橋した四つの橋のことで、完成した順と年は次のとおりだ。

・両国橋:1659(万治2)年、または1661(寛文元)年など諸説
・新大橋:1693(元禄6)年
・永代橋:1698(元禄11)年
・大川橋:1774(安永3)年(現在の吾妻橋)

 この四橋によって対岸の深川(江東区)と本所(当時の名称は本庄/墨田区)などの開発が進み、その地へ住人が移住し、江戸の新興住宅地へと成長していった。また、のちには本所から向島が料亭を中心とした歓楽地として、また隅田川の桜並木が花見の名所として栄えるなど、現在に至る「下町」を構成していった。都市づくりにおいて四橋が果たした役割は大きかった。

 そこで、四橋の豆知識を紹介したい。

 まず、両国橋についてだ。記録によると、建設当初は長さ94間(約171m)、幅4間(約7.3m)。架橋した年は

・万治2年説(『享保撰要類集』)
・寛文元年説(『落穂集』『江戸名所図会』)

など諸説あるが、『江戸の橋』(鈴木理生/三省堂)によると、

「万治2年に、建設の準備のためにまず仮橋が出来、その二年後の寛文元年に本橋が完成しているのだが、仮橋と本橋の完成年月日が混同されたため、記録の上でも多くの混同が生じたものと考えられる」

という。

 実際、幕府の公文書である『徳川実紀』が万治2年12月13日の章に、「新架ノ橋成功し名づけて両国橋といふ」と、「仮橋」のことを記載しているのに対し、同じく公文書である『町触』は「万治三年子年(ねどし)より普請に着手し翌丑年(うしどし/寛文元年)に出来」と、こちらは「本橋」の完成を指している。

江戸の歴史を照らす両国橋

『公文附属の図・三八号 東京両国橋新架写真』は明治8(1875)年12月、老朽化した両国橋の架け替えが完了したときに撮影された貴重な古写真(画像 : 国立公文書館)
『公文附属の図・三八号 東京両国橋新架写真』は明治8(1875)年12月、老朽化した両国橋の架け替えが完了したときに撮影された貴重な古写真(画像 : 国立公文書館)

 公文書がこうなのだから、他の史料が混乱したのも当然といえよう。だが、万治2年に「仮橋」が架橋し、万治3年に「本橋」の工事を開始。寛文元年に本橋が完成した――と見ていいようだ。

 両国橋を架けた目的は、連載第17回「大火のたびに屈せず復興「日本の底力」は江戸時代から学べ」(2023年10月29日配信)で解説したとおり、明暦の大火(1657年)の際、隅田川を渡って対岸に逃げることができなかった多くの人が犠牲となったため、緊急時の避難路として必要になったからだった。

 また、『徳川実紀』が「名づけて両国橋といふ」と記しているのは前述したが、架橋当初の名称は「大橋」で、両国橋は俗称だったという。20年余り後、元禄6年に完成した橋が「新大橋」と名づけられたため、大橋から両国橋へ正式に名称が変更となったのである。

 両国橋の名称は、隅田川の向こう側が下総国に属しており、一方の江戸は武蔵国だったので、「両方の国を渡る橋」という意味に由来する。もっともややこしいのだが、1686(貞享3)年、江戸幕府は対岸を下総から武蔵に編入している。

 つまり、両国橋に名称変更されたとき、すでに両岸ともに武蔵国だった。だが、「両国」という名がすっかり定着していたので、あえて変える必要もなかったのである。

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