江戸時代に架けられた隅田川「江戸四橋」 その知られざる“豆知識”を披露しよう【連載】江戸モビリティーズのまなざし(19)

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江戸時代の都市における経済活動と移動(モビリティ)に焦点を当て、新しい視点からそのダイナミクスを考察する。

52日で完成した新大橋

夕立に見舞われる新大橋の様子を留めた『名所江戸百景 大はしあたけの夕立』(画像 : 国立国会図書館)
夕立に見舞われる新大橋の様子を留めた『名所江戸百景 大はしあたけの夕立』(画像 : 国立国会図書館)

 新大橋の大きさは、長さ京間100間(約191m)、幅同3間7寸(6m弱)と、『御内府備考』にある。京間というのは関西で使われていた長さの測り方で、江戸間が1間1.82mに対し、京間は1.91mと、少し長い。新大橋の記録にだけ、なぜ京間が使われているかは不明だ。

 橋の普請から完成まで「晴天八十日」で築けと指示され、52日で完成したという(『御内府備考』)。このことは、架橋の技法がすでに確立されていたことを物語っていよう。
 初渡りは元禄6年12月7日で、翌日に名称が「新大橋」と決定した。当時、深川の六間堀という場所に住んでいた松尾芭蕉が、橋の完成を「ありがたや いただいて踏む 橋の霜」と詠んでいる。12月の寒い日、人々は霜が降りた橋を、感謝の念を込めて渡ったのだろう。

 新大橋は1744(延享元)年、町人管理の橋となった。木造だったため、すぐに痛み、また度重なる台風襲来による修復も必要だったが、幕府はその資金の負担にたまりかねていた。そこで、民間に管理を移行することにしたのである。

 実際、幕府は新大橋、または永代橋のどちらかを、撤去する計画だったらしい。だが、それでは住人は困る。そこで陳情した結果、新大橋は町人たちが自ら管理することで決着した。管理費用は、橋の通行料を取ることで捻出したという。現代も橋を架けるたびに料金を徴収しているが、江戸時代も同じだった。

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