江戸時代に架けられた隅田川「江戸四橋」 その知られざる“豆知識”を披露しよう【連載】江戸モビリティーズのまなざし(19)
- キーワード :
- 江戸モビリティーズのまなざし, モビリティ史
江戸時代の都市における経済活動と移動(モビリティ)に焦点を当て、新しい視点からそのダイナミクスを考察する。
永代橋崩落の原因

同じく町人管理となった永代橋も、そもそもは4か月の突貫工事で完成した。長さ110間(約200m)、幅3間1尺(約5.8m)で、新大橋に比べて橋の傾斜が急だった。河口に近かったため水位が高く、船の出入りも多かったためである。
1807(文化4)年8月19日、深川八幡宮の祭礼に押し寄せた群衆の荷重に耐えきれず、永代橋が落ちるという事故が起きた。死者・行方不明、計1400人という大惨事だった。狂歌師の大田南畝(おおた・なんぽ)は、「永代とかけたる橋は落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼」と詠んだ。
この崩落事故が、急傾斜の複雑な構造と、不十分な町人管理が招いた結果だと指摘する声は、少なくなかった。幕府も民間に管理させる限界を悟ったのか、翌年には新大橋と永代橋を架け替え、程なく幕府の管理に戻している。官営から民営化によって問題が噴出するのも、現代と似ていよう。
四つ目の大川橋は、江戸時代に隅田川に架かった最後の橋で、長さ84間(約153m)、幅3間半(約6.4m)だった。『徳川実紀』安永3年10月17日条には「これは市人等こうてつくりしといふ」とあり、町人たちの強い要望によって架橋したとある。大川橋を渡した場所は水戸(茨城県)や佐倉(千葉県)に通じる舟運の要衝でもあったので、舟に搬出入する荷物を運搬するためにも、橋は必要だったのである。
江戸の東に位置することから、建設中より「東橋」または「吾妻橋」と呼ぶ者が多かったが、当時は隅田川を「大川」と呼ぶのが一般的だったので、正式名称は大川橋となった。『武江年表』 には「大川橋俗に吾妻橋といふ」とある。