「水害都市」だった江戸 その歴史から災害対策に生かす術を考える【連載】江戸モビリティーズのまなざし(18)

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江戸時代の都市における経済活動と移動(モビリティ)に焦点を当て、新しい視点からそのダイナミクスを考察する。

湿地帯を描いた浮世絵

江戸を襲った台風を描いた『安政風聞集』(画像:国立公文書館)
江戸を襲った台風を描いた『安政風聞集』(画像:国立公文書館)

 今回は、実は江戸が「水害都市」だったことを伝える浮世絵や文献史料をもとに、現代の災害対策に生かす方法はあるかを考えたい。

 安政年間(1855~1860年)の江戸を現在に伝える、1作の浮世絵がある。歌川広重(うたがわひろしげ)画の『名所江戸百景 箕輪金杉三河しま』(みのわ・かなすぎ・みかわしま)だ。現在の

・東京都荒川区東日暮里
・台東区三ノ輪/下谷

の一帯を描いたものだ。

 タンチョウヅルが2羽――1羽は飛来し、1羽はたたずんでいる。タンチョウヅルは湿地帯に住む鳥で、現在の生息地は釧路湿原が知られる。つまり、一見のどかな田園に見えて、この絵はかつて江戸城の北にあった

「湿地帯」

を描いているのである。

江戸の水害

歌川広重画『名所江戸百景 箕輪金杉三河しま』(画像:国立国会図書館)
歌川広重画『名所江戸百景 箕輪金杉三河しま』(画像:国立国会図書館)

 歴史学者・土木工学者の竹村公太郎は、

「当時の江戸がいかに水害に悩まれていたかがよくわかる絵」(『広重の浮世絵と地形で読み解く江戸の秘密』集英社)

であると語る。

 江戸はそもそも低地にあり、かつ湿地帯で、水害が後を絶たなかった。原因は

・荒川
・利根川

だ。

 徳川家康が豊臣秀吉に命じられて江戸に入府した1590(天正18)年当時、利根川は江戸湾(東京湾)に直接流れ込んでいた河川で、荒川はその支流だった。荒川の由来は「荒ぶる川」で、氾濫しては水害を及ぼした。

 そこで江戸幕府は治水対策に着手し、1629(寛永6)年から荒川と利根川の瀬替え(せがえ/別の場所に流路を造りかえる)工事を断行し、荒川の流路を西へ移した。「荒川の西遷」という。これによって流域を洪水から守ると同時に、湿地を新田へと開発していった。

 さらに、荒川を埼玉県・入間川の支川である和田吉野川と合流させ、そこから江戸に至る流路も造った。この結果、荒川は隅田川を経て、江戸湾に注ぐことになった。

 だが、それでも防ぎきれず、記録に残るだけでも100回超の洪水が、江戸時代に起きている(『荒川上流改修六十年史』『荒川下流改修七十五年史』関東地方建設局)。

利根川の東遷計画

『安政改正御江戸大絵図』で見る箕輪・金杉・三河島(画像:国立国会図書館)
『安政改正御江戸大絵図』で見る箕輪・金杉・三河島(画像:国立国会図書館)

 明治に入ってからも、洪水は『箕輪金杉三河しま』を襲った。

 1910(明治43)年8月8日から11日にかけて続いた激しい降雨によって発生し、

・死者:45人
・家屋全壊:87戸
・流出家屋:94戸
・浸水家屋:16万7410戸

に及んだ。三河島近辺では、水没した家から辛うじて屋根にはい上がった人々が、救助を叫び続けたという。

 江戸時代初期には、「荒川の西遷」と並び、もうひとつの治水事業があった。「利根川の東遷」である。利根川も流域に湿地が多く、かつ川筋がいくつもにわかれて複雑だったため、洪水の中心地だった。

 そこで幕府は1621(元和7)年、利根川を東にあった渡良瀬川に接続したうえで、茨城県と千葉県を通る常陸川に合流させ、太平洋に面した銚子で海に注がせた。1654(承応3)年まで続いた難事業だった。

 これによって、江戸を含む武蔵国は急速に新田が増えていくが、それでも洪水のリスクと隣り合わせだった。

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