大火のたびに屈せず復興 「日本の底力」は江戸時代から学べ【連載】江戸モビリティーズのまなざし(17)

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江戸時代の都市における経済活動と移動(モビリティ)に焦点を当て、新しい視点からそのダイナミクスを考察する。

多くの教訓から進められた避難場所設置

『名所江戸百景』に登場する広小路2か所。(左)下谷(上野)広小路、(右)筋違内八ツ小路(画像:国立国会図書館)
『名所江戸百景』に登場する広小路2か所。(左)下谷(上野)広小路、(右)筋違内八ツ小路(画像:国立国会図書館)

 この苦い経験を生かし、江戸幕府はその後、防火対策に注力し、都市づくりを見直していく。それらの対策には、現在の東京に名残を伝えるものもある。

 そのひとつが、「広小路」の地名だ。住民が逃げやすいように道路を拡張し、広がった街路の数か所を「広小路」という火除地(ひよけち)としたのである。台東区にある上野広小路の名は、防災のために造成された「広い街路」に由来する。

 歌川広重の代表的浮世絵『名所江戸百景 下谷広小路』は安政年間(1854~1860年)に描かれた上野広小路だ。明暦の大火から200年後の光景だが、広い道が見える。右側の建物は呉服店で、屋号が「いとうまつざかや」とある。松坂屋上野店の前身である。

『名所江戸百景 筋違(すじかい)内八ツ小路』も火除地だ。筋違とは複数の道が交差した地点のことで、八ツ小路は中山道をはじめとした八つの道が交わっていたが、実際には細い道を含めさらに多くの道が交差していた。現在の神田万世橋と昌平橋の間に位置し、住所は千代田区外神田。中央線の線路沿いに、今も広場がある。

 東京都防災ウェブサイトによると2022年4月1日時点、大地震が発生した際には都内に約3200か所(協定施設等を含む)の避難所、約1600か所の福祉避難所が確保されており、収容人数は約320万人。江戸時代の火除地のプランが、避難所にアレンジ・拡大されて生きているといえよう。

 幕府は浅草にあった米蔵の食料を開放し、炊き出しを行った。都市の再建には家屋を建てる材木が大量に必要だったため、木材の価格高騰も抑えた。郊外の武蔵野に町人を移住させる計画もスタートし、家を失った人々が引っ越していった。

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