大火のたびに屈せず復興 「日本の底力」は江戸時代から学べ【連載】江戸モビリティーズのまなざし(17)

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江戸時代の都市における経済活動と移動(モビリティ)に焦点を当て、新しい視点からそのダイナミクスを考察する。

橋の建設と火事からの避難経路の確立

明暦の大火からの復興を主導した保科正之(画像:土津神社)
明暦の大火からの復興を主導した保科正之(画像:土津神社)

 橋の建設も進んだ。河川は火をそれ以上先に延焼させない役目を果たしたが、同時に人々が逃げる際の妨げにもなったため、橋を架けて逃げ道をつくったのである。そうして架橋されたのが、隅田川の両国橋である。

 両国橋の建設を進めたのは、保科正之だった。正之は2代将軍・徳川秀忠のご落胤(らくいん)だった人物で、3代将軍・家光の異母弟としても知られる。明暦の大火が起きたのは家光没後で、ときの将軍は4代・家綱だったが、正之は家綱の後見という重職を担って江戸の復興を主導した。家光時代から信任あつかった宿老・酒井忠勝も、両国橋の架橋を提言したひとりである。

 江戸はもともと、千住大橋の他に隅田川に橋を架けていなかった。橋があれば敵が侵入しやすいため、防衛という視点から建設を禁止していたのである。

 だが、すでに太平の時代に移り、江戸が攻撃にさらされる危険は薄かった。幕府は方針を転換し、新大橋(1693〈元禄6〉年)、永代橋(1698〈同11〉年)と、新たな橋を築いていく。『東京市史稿橋梁篇』(1939〈昭和14〉年、東京市役所編纂)は新大橋について、

「今一ツ中央に大橋興立(こうりゅう。建設すること)ナラハ、大ひ成る世の扶(たす)け」

と記している。

 結果としてこれらの橋が隅田川の向こう岸の市街化を進め、本所・深川などの下町が発展し、江戸の中心地の人口密度を下げることにもつながっていく。

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