武田信玄が遺した「棒道」「信玄堤」という揺るがぬ遺産をご存じか【連載】江戸モビリティーズのまなざし(13)

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江戸時代の都市における経済活動と移動(モビリティ)に焦点を当て、新しい視点からそのダイナミクスを考察する。

三つのルートがあった棒道

棒道の三つのルート(画像:歴史人2023年3月号/ABCアークを参考に作成)
棒道の三つのルート(画像:歴史人2023年3月号/ABCアークを参考に作成)

 信玄は信濃(長野県)への進出を企てていた。それには、大軍をスピーディーに移動させる必要があり、棒のような直線の道が適していたわけだ。棒道と呼ばれるのはそのためで、『甲斐国史』は

「古時軍行の宏道(戦国時代に軍が行き来した広い道)」

とも記している。

 これも『甲斐国史』によるが、棒道には次の三つのルートがあったという。

・若神子を起点として大門峠に至る上ノ棒道
・大八田で上ノ棒道から分岐し、大井ヶ森を経由して大門峠に出る中ノ棒道
・中ノ棒道の南西にあり、諏訪へと続く下ノ棒道
である。

 この結果、起点の若神子は、信濃攻略の軍事・経済の拠点として発展していく。江戸時代に入って甲州街道が整備されると、拠点としての役割は韮崎宿に移管されていくが、若神子はなお在郷町として存続し続けた。

 在郷町とは、農業と商工業が混在した商工業集落のこと。若神子には農民が集住する一方で、慶応年間(1865年~)には質屋や醤油業者、商店や旅籠が軒を連ね、また紙すきや藍染めなどを手がける職人も住んでいたと、『須玉町史』にある。幕末までにぎわいは続き、甲斐の経済を支えていった。

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