武田信玄が遺した「棒道」「信玄堤」という揺るがぬ遺産をご存じか【連載】江戸モビリティーズのまなざし(13)

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江戸時代の都市における経済活動と移動(モビリティ)に焦点を当て、新しい視点からそのダイナミクスを考察する。

新田開発で国力をアップ

復元された大聖牛(画像:小林明)
復元された大聖牛(画像:小林明)

 とはいえ、築いた堤防がどれくらいの規模であったかなど、不明な点も多い。これについては『歴史群像シリーズ 闘神 武田信玄』(学研)が、釜無川にあった

「長さ350間(けん/約630m)、幅8軒(約14m)」

の堤防が、建設当初のものだったとの見方を紹介している。また、1560(永禄3)年にすでに造成が始まったとする説はあるものの、詳しい工事期間や完成した時期も、明確に断言できない。

 永禄3年説の根拠は、この年に堤防の建設に伴って近隣集落の移転計画が開始され、移住者を募集した記録(『保坂家文書』)が残っているためだが、そのほかの史料は乏しく、判然としないのである。

 このように信玄堤にはいまだに謎も多い。だが、重要なのは治水のみならず、現在でいう再開発の狙いを持った大事業だったことにある。

 前述の通り、信玄は堤防を築くだけでなく、土地を開削して川の流れを変えようとした。そのため、開削予定の地にあった集落の移転も並行していった。

 そして、移り住んだ者たちは新田の開発に従事することになった。新しい集落は竜王河原宿と呼ばれ、住人は開発した新田で米を作りながら、同時に堤防の管理や補修を担い、水害に備えた。

 新田開発に就役した者には棟別銭(むねべつせん。棟ごとに課す税)を免除するなど、優遇措置を適用していたこともわかっている。これによって、米の生産力もアップしたと考えられる。

 以前より豊かになった国力をバックに、信玄は勢力を拡大させていく。信玄堤は何度も補修を繰り返し、現在も甲府盆地の治水に役立っている。

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