武田信玄が遺した「棒道」「信玄堤」という揺るがぬ遺産をご存じか【連載】江戸モビリティーズのまなざし(13)

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江戸時代の都市における経済活動と移動(モビリティ)に焦点を当て、新しい視点からそのダイナミクスを考察する。

棒道は軍の移動専用道

釜無川の信玄堤(画像:小林明)
釜無川の信玄堤(画像:小林明)

 信玄が行ったもうひとつのインフラ整備が、

「棒道(ぼうみち)の造成」

といわれている。

 棒道も解明されていない点が多く、そもそも信玄が建設したか否かをめぐり歴史家の間で見解の相違があるのだが、ここではそうした専門的なテーマは省き、わかりやすく話を進めよう。

 戦国時代の甲斐には、周辺諸国とつながる道が九つあった。甲斐の九筋(くすじ)と呼ばれ、

・信濃へ向かう逸見路、穂坂路
・駿河へ続く河内路、中道、若彦路
・相模に通じる鎌倉街道
・武蔵へは秩父街道、青梅街道

そして棒道の計九つ。棒道は逸見(へみ)路と同じく信濃へ伸びていた。

 逸見路から青梅街道までの八つの街道には、物資を中継する宿駅(宿場)を設けていたが、棒道にはなかった。兵と馬が迅速に通行することを最優先としたため、あえて必要ではなかったという。

 つまり、棒道は

「軍の移動専用の道」

だったといわれているのである。

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