日産の源流! ダットサンの「ダット」とは一体どういう意味だったのか
大正から昭和初期、日本では自動車製造業者がいくつも産声を上げた。その中に、今も国産メーカーとして確固たる地位を誇る日産自動車の源流もあった。
21世紀まで働き続けたゴーハムの工作機械
そして長年にわたる日本での生活の集大成として、1941(昭和16)年には妻とともに日本への帰化を決断。その名を「合波武克人(ごうはむ かつんど)」と改めた。
太平洋戦争の勃発は、アメリカ人だったゴーハムの立場を非常に微妙なものとした一方、周囲の友人達の尽力もあって、厳しい時代を乗り越えることができた。
太平洋戦争終結後、ゴーハムはあらためて日産自動車の重役に就任し、その後は富士自動車副社長へと転身した。
同時に、自身のエンジニアリングコンサルタント会社を興すも、1949年に病に倒れ同年61才で死去した。墓所は多摩霊園にある。
なお、ゴーハムがグレアム・ペイジから購入した工作機械の数々は、その後も日産自動車横浜工場で長年にわたって稼働を続け、最後のエンジン加工ラインボーリングマシンが運転を終えたのは、21世紀に入ってからのことである。