日産の源流! ダットサンの「ダット」とは一体どういう意味だったのか
大正から昭和初期、日本では自動車製造業者がいくつも産声を上げた。その中に、今も国産メーカーとして確固たる地位を誇る日産自動車の源流もあった。
日産からの依頼、技術者が採った奇策とは
そんなゴーハムに対して鮎川義介が求めたのは、信頼性の高い量産設備の構築だった。
このオーダーに対してゴーハムが採った方法はというと、大恐慌に伴う不景気の最中、拡大し過ぎた生産設備の縮小を行っていた企業から、製造設備そのものを買い取ることだった。
折しもアメリカの中堅自動車メーカーだったグレアム・ペイジ(グラハム・ペイジと表記されることが多いが、より正確な発音に基づいた表記はグレアムである)が、生産工場のひとつを閉鎖したことで宙に浮いていた工作機械、製造金型、設計図面を、車両の製造権ごと買い取ることに成功する。
この策は、経営的には多大なコストを要求する大胆な手法だった一方で、方法論としては正しく、日産自動車は大型乗用車やトラック、バスにおいて先行していた豊田自動織機自動車部に素早く追いつくことができた。
グレアム・ペイジの設計をそのまま踏襲したニッサン70型乗用車やニッサン80型トラックは、その性能も優れていた。
日産自動車が、豊田自動織機自動車部と並んで、新たに成立した国産自動車振興法である自動車製造事業法指定許可会社となることができたのは、何よりも迅速な実践を重視していたゴーハムの優れた手腕が大きく作用していたことは疑いない。
ゴーハムはその後もさまざまな企業において技術コンサルタントを務め、特に日産自動車における生産設備の整備が高く評価されたことから、この方面における自他共に認める第一人者となった。