地方都市の区画はなぜ「江戸時代」のままなのか? 徳川家康が築いた名古屋城下から考える【連載】江戸モビリティーズのまなざし(8)

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江戸時代の都市における経済活動と移動(モビリティ)に焦点を当て、新しい視点からそのダイナミクスを考察する。

未来の経済発展を見越していた家康

現在の名古屋。文中にある主だった施設を書き込んだ(画像:(C)Google)
現在の名古屋。文中にある主だった施設を書き込んだ(画像:(C)Google)

 家康が整備を進めた城下は、城の東西南北に武士を身分ごとに集住させ、町人は南の武家地の外に、寺は町外れに置く構造だった。これを現在の名古屋市の中心地に置き換えると、まず城の南の武家地。ここにはかつて、城の重臣たちが住んでいたが、今は名古屋市役所と愛知県警察本部がある。

 城の北に名城公園、南東には愛知県庁、南西は白壁や土蔵が残る観光スポットの四間道(しけみち)。また、城の周囲には名古屋高速1号楠線をはじめとした高速道路だ。四方に重要な施設や名所・道路が多いことが分かる。

 最も注目したいのは、南の武家地の外にあった町人地だ。ここは碁盤の目となっており、こうした区画を「碁盤割」という(1ページ目トップ画像の赤枠部分)。名古屋の町人地の道は、直線になっているのだ。

 一方、城下町によく見られる町人地は、道が入り組んでいるケースが多い。これは道を複雑に曲折させることによって、敵の侵入を阻み、城を守るためだった。逆にいえば、いざ戦(いくさ)が起きた時、戦場となるのは町人地だったことを意味する。また、町外れに寺を置いたのは、寺の敷地に自軍が駐屯できる広いスペースが十分にあったからだった。

 町人地が戦う場所、寺が軍の拠点、さらに城に続く道は曲折し、敵が容易に城に近づけない。これが城下町の典型的な構造だ。だが、家康はそうではなく、平和な時代の到来を見越して

「利便性や経済活動を最優先とした新しい城下町づくりに取り組んだ」(山本博文氏)

のである。その結果、道は物資が運搬しやすい直線となったわけである。

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