地方都市の区画はなぜ「江戸時代」のままなのか? 徳川家康が築いた名古屋城下から考える【連載】江戸モビリティーズのまなざし(8)
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大丸松坂屋の発祥地

名古屋市鶴舞中央図書館が所蔵している『天明以前名古屋図』(1ページ目トップ画像)を見ると、縦横無尽に町人地を貫く道が東西11列、南北9列。区画は実に99に及んでいる。
家康がつくったこの町割によって発展した町人地は、現在の中区へと、長い時をかけて変貌をとげていく。中区丸の内は久屋大通りと桜通り、外堀通りに囲まれ交通の便もよく、栄・大須などのオフィス街や繁華街となり、デパートなど大型商業施設も立ち並んでいる。名古屋の経済発展につながった功績は見逃せない。
また、商業面で成功した例として、いとう呉服店もあげられるだろう。家康は碁盤の目の中央を南北に貫く本町通りに、商人を集住させた。その中から台頭してきたのが、いとう呉服店だ。いわずと知れた松坂屋(現在の大丸松坂屋)の前身である。
舟運の整備もあげておこう。熱田湊(あつたみなと)は尾張最大の船の寄港地であり、商品流通の一大拠点だった。そこで、城の西に堀川(城を囲む堀に水を張った水路)を開削し、水路を熱田湊(あつたみなと)までつなげた。
城郭研究家の加藤理文氏は、「城下町の生活物資の運搬水路として、重要な役割」(『歴史人』2020年5月号「古地図で読み解く城と城下町の真実」掲載「天下人の城」ABCアーク)だったと解説している。
家康以降も成長は続いた。町人地は1660(万治3)年の大火で甚大な被害を受け、焼失した家屋は2000以上に及んだが、時の尾張藩主だった2代・徳川光友(みつとも)が再建に取り組んだ。その際に誕生したのが、広小路筋である。
大火の前は道幅が約5mだったのを約27mと5倍超に拡張し、庶民が楽しめる繁華街にしたのである。芝居小屋や見世物小屋が出店し、名古屋きっての名所となった。今も市の東西を貫く道路である。
家康が築いた名古屋城下は現在まで脈々と息づき、モビリティーズの発展に寄与しているのだ。
●参考文献
・古地図から読み解く城下町の不思議と謎/山本博文(実業之日本社)
・歴史人2020年5月号「古地図で読み解く城と城下町の真実」掲載「天下人の城」/加藤理文(ABCアーク)