駅前の「ゲームセンター」はなぜ姿を消したのか?――終電待ち30分を吸収した“時間バッファ産業”の消滅

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駅前のゲームセンターは、移動の合間の滞留を受け止める「都市のクッション」だった。市場規模7200億円と回復する一方、地価高騰とスマホ化で空間は消滅。効率化が混雑と居場所の喪失を招き、都市の余白が失われている。

ゲームセンターの歴史

昭和~平成のゲームセンターのイメージ(画像:写真AC)
昭和~平成のゲームセンターのイメージ(画像:写真AC)

 かつて駅前という移動の接点には、日常の合間を埋めるアミューズメント施設が存在していた。夕方から深夜にかけて、帰宅前の学生や会社員が、短い時間をメダルゲームや格闘ゲームに費やす――わずかな滞在でも利益が出るビジネスの仕組みが、都市生活の流れのなかに、人が少しだけ立ち止まる時間を生み出していたのだ。

 温泉旅館やデパート屋上といった特定の目的地にしかなかった娯楽が、駅前という人が動く道筋のなかに組み込まれたことは、都市で暮らす人々が

「移動の途中でも心を休める場所」

を求めていたことを示している。100円硬貨を投じる行為は、年齢や性別を問わず、短い時間だけその場所を自分ひとりで使う権利を認めるものだった。誰にでも平等に開かれた、名前を明かさなくてよい自分だけの場所を街の中で確保していたのだ。

 施設の歴史をたどれば、その始まりは戦前の温泉地にあった卓球台や射的場にある。1960年代にはデパート屋上の集客を助ける存在として、親子や仲間同士の遊びに使われた。1978(昭和53)年、『インベーダーゲーム』の登場は、遊ぶ機械の産業を電気の産業へと変化させ、施設の存在価値を根本から変えた。

 移動のついでに立ち寄る場所から、そこへ行くこと自体を目指す目的へと変わり、駅前の施設は街の遊びの中心となる役割を手に入れた。この変化は、いつもの移動ルートのなかで一時的に自分の居場所を確保する作法を、多くの人に定着させた。100円という安さで、予約も契約もなしに公共に近い場所を占領できることは、街のなかでの自由を手に入れるための画期的な方法だった。1984年には法律が変わり、施設は警察の監督下に置かれ、

「深夜の営業」

に制限が加えられた。ただ、店の床の広さに対してゲーム機が占める広さが10%未満であれば規制の対象外とするルールが、小さなゲームコーナーが生き残る道を作った。

 1995(平成7)年の「プリント倶楽部」や「UFOキャッチャー」の登場は、それまで男性が多かった空間に女性や家族を呼び込み、店内の雰囲気を一変させた。21世紀に入ると、家庭用ゲーム機の性能が上がったため、施設はそこでしか体験できないアトラクションのような形へと変わっていく。

 2023年度データでは、アミューズメント産業の市場規模は、店の売上高5384億円(前年度比4.7%増)、機械の販売高1816億円(同6.0%増)を合わせて7200億円(同5.0%増)に達した(『日本アミューズメント産業協会』2025年8月発表資料)。2019年度の水準を上回るこの回復は、移動の制限がなくなった後の、外で遊びたいという気持ちの強さを物語っている。街のなかで短い時間を埋める場所は減ったが、人々が駅前に求める

「少し立ち止まる時間」

は、今も変わらず都市の生活において価値を持ち続けている。目的地へ向かうだけの移動を、自分を取り戻すための時間に変える効果があったのだ。

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