「自分たちを八重洲と呼んでくれ」 東京駅の東側、なぜ“不便な裏口”がブランド地へ昇格したのか? 住民運動が勝ち取った「地名再編」とは
東京駅の“裏口”と呼ばれた八重洲口が、ビジネスと観光の玄関口に進化するまでには、震災・戦後復興・地名再編という幾重もの都市課題が絡んでいた。地権者対立から始まる道路整備、住民主導の町名運動まで──約100年にわたる都市構造改革の裏側に迫る。
幻に終わるはずだった裏口構想

東京駅の八重洲側改札口の整備構想は、実は100年以上前から存在していた。
初めてこのエリアに出入り口を設ける構想が示されたのは、1920(大正9)年の都市計画によるものだ。計画では、現在の八重洲通りにあたる道路を新設し、「東京駅裏口」(当時の呼称)へのアクセス路を確保することが目的だった。
しかし、この構想はすぐには実現しなかった。八重洲通りにあたる一帯が、旧・日本橋区と京橋区の区境に位置していたためだ。道路を通すには、いずれかの区に住民の立ち退きを求める必要があり、区民の間で対立が発生した。
具体的には、日本橋区の上槇(かみまき)町側で立ち退きを実施する案と、京橋区の下槇町側に譲歩を求める案が対立し、いわゆる「槇町問題」と呼ばれる論争へと発展した。
この膠着状態を打開する契機となったのが、1923年の関東大震災である。震災後に都市計画の大規模見直しが行われ、ようやく道路整備が進展した。
こうして八重洲口は形を成したが、整備が進んだ戦前期においても、東京駅の「裏口」という立場は変わらなかった。丸ノ内口が依然として東京の表玄関として君臨していたからだ。