「自分たちを八重洲と呼んでくれ」 東京駅の東側、なぜ“不便な裏口”がブランド地へ昇格したのか? 住民運動が勝ち取った「地名再編」とは
東京駅の“裏口”と呼ばれた八重洲口が、ビジネスと観光の玄関口に進化するまでには、震災・戦後復興・地名再編という幾重もの都市課題が絡んでいた。地権者対立から始まる道路整備、住民主導の町名運動まで──約100年にわたる都市構造改革の裏側に迫る。
鉄道会館が生んだ再開発の転機

八重洲口が日本橋・京橋方面の繁華街へ通じる玄関口として本格的に機能し始めたのは、戦後に入ってからである。
太平洋戦争によって一帯は甚大な被害を受けた。焼け野原となった八重洲エリアでは、戦後復興の一環として瓦礫や焼土の撤去が急務となり、その過程で外堀も1948(昭和23)年に埋め立てられた。
この外堀跡地に1954年、鉄道会館ビルが完成する。以後、2007(平成19)年の閉館まで、八重洲口の象徴的な駅ビルとして機能した。
ただし、外堀の埋め立てが決定した時点では、鉄道会館ビルの建設計画は存在しなかった。戦後復興計画の当初案では、駅前広場を現在よりも北側に整備する予定だった。
ところが、計画は途中で変更され、結果として鉄道会館ビルと国際観光会館が建設された。両施設は現在「グラントウキョウノースタワー」「サウスタワー」が建つエリアに位置していた。
なぜ計画が変更されたのか、その詳細な経緯は不明である。ただし、当時の東京都知事・安井誠一郎が主導した都市再開発の方針が、計画に大きな影響を与えたと見られている。
駅前整備の象徴ともいえる2棟のビルは、八重洲口のにぎわい創出に大きく貢献した。一方で、整備計画の変更は周辺地権者との調整や土地再配置にも影響を及ぼした。