淡路島と和歌山の「矢印エリア」に、なぜ橋を作らないのか?

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紀淡海峡に橋を架ける構想は1960年代から議論され、約11kmの海峡横断は世界最長級の吊り橋計画として注目された。しかし、技術的課題や財政事情、環境問題が重なり半世紀以上実現を見ないままだ。高度経済成長期のインフラ投資熱が冷めるなか、現代の技術と経済状況で再評価が求められている。

生き残り懸けた六橋構想

 1998(平成10)年4月、明石海峡大橋が開通すると、紀淡海峡架橋構想は一転して逆風に晒された。バブル崩壊後の長期不況の影響で、公共事業への世論は一気に厳しさを増した。政府は同年、財政構造改革推進方策を決定。公共投資の大幅削減にかじを切った。

 総事業費3兆円規模の本州四国連絡橋(本四架橋)三ルートでさえ、「本当に必要だったのか」と疑問視される時代である。新たな巨大プロジェクトが受け入れられる余地は、ほとんど残っていなかった。

 本四連絡橋にも、「三ルートは過剰だったのではないか」との批判が向けられた。とりわけ

「我県引橋(わがけんびきばし)」

とやゆされた橋には、「政治橋」との非難も目立つようになった。こうした空気のなかで、さらなる大型事業を提案することは、実質的に不可能だった。

 一方、1998年3月、政府は「21世紀の国土のグランドデザイン(第5次全国総合開発計画)」を閣議決定。紀淡海峡を含む六つの架橋構想が明記された。しかしこれは、構想をかろうじて文書に残した程度にすぎなかった。

『朝日新聞』1998年4月6日付朝刊「我県引橋見え隠れ 四国五橋浮上 明石大橋開通」は、当時の国土庁の迷いをこう伝えている。

「3月末の閣議決定に向けて五全総の文案を練っていた国土庁幹部は、2月に入っても迷っていた。「紀淡など海峡横断道路構想を六つも盛り込んでいいものか」。採算性や環境への影響を考え、大型事業はできるだけ絞り込むのが同庁の基本方針だったからだ。一方、建設省は六つの長大橋の調査に四年前から着手し、その一部は本州四国連絡橋公団にゆだねた。「四国三橋」後に厳しいリストラが待ち構える同公団は六橋構想に生き残りをかけている。(中略)「六橋事業化のめどを書かないという一線だけは守った」。国土庁幹部の言い訳は苦しげだ」

この経緯からもわかるように、紀淡海峡架橋は五全総に記載された段階で、すでに実現可能性を失っていた。

 構想は、かつての高度経済成長を支えたインフラ投資の成功体験を引きずったものだった。夢を見たのは、その時代を知る関係者たちである。構想は政治的な思惑や省庁間の綱引きの中で肥大化したにすぎず、実現性をともなう計画とはいい難かった。

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