淡路島と和歌山の「矢印エリア」に、なぜ橋を作らないのか?

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紀淡海峡に橋を架ける構想は1960年代から議論され、約11kmの海峡横断は世界最長級の吊り橋計画として注目された。しかし、技術的課題や財政事情、環境問題が重なり半世紀以上実現を見ないままだ。高度経済成長期のインフラ投資熱が冷めるなか、現代の技術と経済状況で再評価が求められている。

大阪湾環状交通網の展望

 紀淡海峡を道路や鉄道で結ぶ構想は、1964(昭和39)年に国連のワイズマン調査団が発表した報告書(ワイズマン報告)で初めて言及された。

 この報告書の「全国的な輸送開発による日本の物的統合」という項目では、愛知県の渥美半島から紀伊半島を横断し、紀淡海峡で橋を架けて四国と結び、さらに豊予海峡で九州と接続する道路構想が示されている。これにより交通の緩和を図り、大阪湾と瀬戸内海をめぐる環状交通網の整備が進むとされた。

 その後、1979年に当時の和歌山県知事・仮谷志良(しろう)が紀淡海峡トンネルの構想を提唱した。大鳴門橋とあわせて大阪湾を環状に囲む交通網の整備を訴えた。以降、運輸省は道路の可能性、国鉄は鉄道の可能性を模索し、幾度かの調査が実施されている。

 1980年代に入ると、和歌山県や徳島県などで実現の機運が高まり、官民による会議が頻繁に開かれるようになった。

 特に注目を集めたのは1988年だ。この年、青函トンネルと瀬戸大橋が開通した。これらの技術を次にどう生かすかという機運が高まり、紀淡海峡と豊予海峡の架橋構想が本命視された。

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