なぜ「飛脚問屋」は上方で生まれた?京都・大坂発、全国輸送網の衝撃!江戸を動脈にした物流と不正の構造とは【連載】江戸モビリティーズのまなざし(26)

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江戸期の物流網を支えた飛脚は、ふんどし姿の配達人ではない。京都120、大坂90超の飛脚問屋が築いた全国ネットは、私設インフラそのものだった。定期便から水陸両用の長崎航路、不正を生んだ需給ギャップまで。輸送のリアルが、現代の構造課題をも照射する。

人手不足が招いた不正

巻島隆『江戸の飛脚~人と馬による情報通信史』(画像:教育評論社)
巻島隆『江戸の飛脚~人と馬による情報通信史』(画像:教育評論社)

 飛脚問屋の数が多いだけに、不正も起きたという。1787(天明7)年の例を紹介しよう。

 京都の高倉姉小路に本店を構える近江屋は、顧客から荷物を直接受注しない「口入」、つまり飛脚を派遣する業者だった。大坂の三度飛脚問屋から依頼を受け、飛脚を手配して江戸に荷物を運搬する、このような業者を「雇宰領(やといさいりょう)」という。

「雇」は臨時を、「宰領」は監督を意味する。実際、雇宰領は「早立」という臨時便に対応し、1件依頼を受ければ即座に着手しなければならない決まりだった。

 ところが近江屋は、2~3件をまとめて運んでいた。問屋から2~3回分の派遣料を受け取りながら、運送は1回で済めば、人件費は浮く。その分、利益になるという考えだったのだろう。

 それが露見し、三度飛脚との間でトラブルとなった。三度飛脚は「不埒(ふらち)」として、近江屋から他の派遣業者に変更することを決した。近江屋は対抗措置として奉行所に訴え出たという。

 訴訟の結果がどうなったかは不明だ。しかし、そもそも京都発の荷物が膨大なのに対し、人手が不足していたことに問題があったといえる。増えるばかりの臨時便に問屋が対応できなかったのが発端であり、そこに不正が生まれる隙をつくってしまったわけである。

 近江屋はこのとき、高倉姉小路の店舗のほかにも大坂・江戸などに出張所を置き、いずれも飛脚の派遣を行っていたと考えられ、各地でルール違反を犯していた可能性は低くない。

 人手を抑えていた者が大胆な不正行為に出る――現代でも起こり得るのではないだろうか。

●参考資料
飛脚は何を運んだのか~江戸街道輸送網 巻島隆/ちくま新書
江戸の飛脚~人と馬による情報通信史 巻島隆/教育評論社

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