なぜ「飛脚問屋」は上方で生まれた?京都・大坂発、全国輸送網の衝撃!江戸を動脈にした物流と不正の構造とは【連載】江戸モビリティーズのまなざし(26)
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江戸期の物流網を支えた飛脚は、ふんどし姿の配達人ではない。京都120、大坂90超の飛脚問屋が築いた全国ネットは、私設インフラそのものだった。定期便から水陸両用の長崎航路、不正を生んだ需給ギャップまで。輸送のリアルが、現代の構造課題をも照射する。
明治まで存続した京都の飛脚仲間

京都と大坂の特徴を、別々に掘り下げよう。
京都では1698(元禄11)年、京都町奉行が16の業者を「飛脚仲間」に指定している。江戸で飛脚仲間が公認されるのは1782(天明2)年だから、80年近く早い。それだけ需要が高かったといえる。
これによって江戸への定期便がスタートし、飛脚仲間に参加した16の業者が毎日、順番に江戸行きの飛脚を走らせることになった。
飛脚仲間については前述の「江戸時代の運送業者「飛脚」料金いくらだった? ふんどし姿だけじゃない? 知られざる実像に迫る」でも触れたが、幕府に冥加金(租税)を納めることで営業を公認された同業者組織だ。現在放送中のNHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺』にも、本を制作・出版する書物問屋仲間が登場する。その飛脚版と考えればいい。
日限(にちげん)、つまり京都~届け先の往復にかかる日数は5日、6日、7日、8日の4種類に定められた。東は尾張(愛知県)、駿河(静岡県)、伊豆(静岡県東南部)、甲斐(山梨県)などに運び、江戸から北へは前述の通り他の問屋に交代するため、上記の四つの日程で事足りたのである。西へ運ぶ場合も同じで、西国街道(京都と九州をつなぐ幹線道路)の宿駅が中継地となっていた。
京都の飛脚仲間は維新後の1870(明治3)年、「東京第一飛脚会社」として再編・発足した。京都にありながら社名に「東京」を付けたのは、大半の荷物が東京行きだったからだろう。
1872年に東京資本の運輸会社に吸収されて消滅したが、江戸時代~明治初期を通じて上方で存在感を示した。