武蔵小杉はなぜ「タワマンだらけの街」になったのか? 住民激増、町内会解散…100年前からの歴史を辿る! 令和の都市開発は成功か失敗か

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急成長を遂げた武蔵小杉は、タワーマンションの集中により都市化が進展。しかし、急激な人口増加と住民構成の変化が、地域コミュニティや町内会の運営に深刻な課題を生んでいる。新たな交通インフラと高級住宅地化にともない、地域の活力維持が求められるなか、今後の発展と社会的問題の解決が試練となる。

不況を越えた交通利便性の期待

1994(平成6)年発行の武蔵小杉周辺の地図(左)と現在の地図(画像:国土地理院、今昔マップ)
1994(平成6)年発行の武蔵小杉周辺の地図(左)と現在の地図(画像:国土地理院、今昔マップ)

 こうした再開発を求める声に応えたのが、川崎市が1983(昭和58)年に策定した『川崎市都市整備構想(2001かわさきプラン)』である。新川崎駅付近に位置する「新川崎インテリジェントシティ」は、この構想の代表的な成果といえる。

 この計画では、市内に複数の都心を分散させる方針が示された。武蔵小杉駅周辺は、新百合ヶ丘駅周辺などと並ぶ重点開発エリアに位置づけられた。この方針を受け、民間も動き始めた。1988年には東急電鉄などが「コアゾーン研究会」を結成し、再開発の取り組みが本格化していった。

 当時の武蔵小杉駅周辺は、急増する人口に対して都市基盤が極めて脆弱だった。JR武蔵小杉駅南口には駅前広場すらなく、周囲には幅4mほどの道路しかなかった。そのうえ、一方通行や行き止まりが混在し、幹線道路へのアクセスも乏しかった。東急東横線との接続も不十分だった。

 行政の打ち出した拠点化の方針を実現するには、都市の大規模な改造が不可欠だった。幸いにも、計画が本格化した時期に、

「工場跡地など大規模な企業所有地の放出」

が相次いだ。これは武蔵小杉にとって大きな追い風となった。しかし、すべてが順調だったわけではない。1994(平成6)年12月9日付『朝日新聞』朝刊は、「ビル造って店子入らず」という見出しで、再開発で竣工した高層ビルに空きテナントが目立つ状況を報じている。不況の影響で、思うようにテナントが集まらなかった。

 それでも、武蔵小杉を「第三都心」として育てる計画は粘り強く継続された。再開発が不況下でも頓挫しなかった最大の理由は、将来的な交通利便性の向上が確実視されていたことにある。特に注目されたのが、2000年に予定されていた東急目黒線の武蔵小杉駅への延伸だった(同年8月に目蒲線を分割し、目黒線に移行)。

 東急東横線はすでに東京メトロ日比谷線と直通運転を行っていた。これに加えて、目黒線が都営三田線・東京メトロ南北線と直通すれば、武蔵小杉から

・六本木
・赤坂
・銀座
・新宿

方面へ乗り換えなしでアクセスできるようになる。

 さらに2005年4月には、川崎市とJR東日本が横須賀線の新駅設置に合意した。これにより、武蔵小杉は首都圏でも有数の交通利便性を備えるエリアになると期待された。

 なお、この時期には川崎市営地下鉄の計画も存在していた。新百合ヶ丘駅~武蔵小杉駅~川崎駅を結ぶ構想だったが、こちらは実現しなかった。

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