駅前再開発で消える「札幌の記憶」――文学が記録した風景はなぜ貴重なのか? 新幹線と都市再編の光と影とは【連載】移動と文化の交差点(11)

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札幌の急成長とともに変わりゆく街並みは、文学作品に色濃く刻まれている。都市の発展により失われた風景をデジタル技術で再現し、観光資源として再生する試みが注目されている。過去と未来を繋ぐこのアプローチは、次世代への新たな価値を創出する可能性を秘めている。

失われた風景の再構築

野田宇太郎『新東京文学散歩』(画像:講談社)
野田宇太郎『新東京文学散歩』(画像:講談社)

 札幌の発展とともに消えていった風景を、文学作品を手がかりに再構築することは可能だろう。また、過去の札幌を描いた文学や映画を通じて、それらを観光資源として活用する取り組みも考えられる。いわゆる「文学散歩」と呼べるかもしれない。

 文学作品を始めとするコンテンツはフィクションであり、これもコンテンツツーリズムのひとつの領域だ(筆者はコンテンツツーリズム学会会長)。コンテンツツーリズムとは、特定の文化的、歴史的、または芸術的なコンテンツに基づいた観光の形態である。この観光スタイルでは、映画やテレビ番組、音楽、文学、ゲーム、アートなど、さまざまなメディアやコンテンツが旅行の目的や魅力となる。近年では「観光の新たな形」として注目されており、地域資源を活用して魅力的な観光地を創出することに寄与している。

 さて「文学散歩」という言葉は、詩人で編集者の野田宇太郎が創案したもので、1951(昭和26)年に『日本読書新聞』に『新東京文学散歩』を連載したことが始まりだ。彼の「文学散歩」は、30年以上にわたりライフワークとなり、シリーズ全26巻が刊行された。その後、この活動も注目されるようになった。

札幌の「文学観光ルート」の可能性

村上春樹『羊をめぐる冒険』(画像:講談社)
村上春樹『羊をめぐる冒険』(画像:講談社)

 例えば村上春樹の1982(昭和57)年に出版された『羊をめぐる冒険』を見てみよう。この作品はデビュー作『風の歌を聴け』、『1973年のピンボール』と続く一連の完結編だ。「僕」は札幌の不思議な「いるかホテル」で謎の羊に関する手がかりを得て、やがて「羊男」と運命的に出会う。作品の後半では、「僕」と「素敵な耳の女の子」が東京から飛行機で札幌にやってくる。最初に喫茶店でコーヒーを飲み、映画館に行く。その後、夕暮れの街を散歩し、目についたレストランに入る。

「いるかホテル」は映画館から西に向かって通りを三本進み、南に一本下がったところにある。ホテルは小さくて無個性だ。おそらく「いるかホテル」は実在しないが、南三条から薄野にかけての地区に立地していると推測される。映画館を当時、狸小路1丁目にあった帝国座とすると、南3条西4丁目辺りになるが、ホテルは実際にはそこには存在しない。

 ふたりはその「いるかホテル」を拠点に、一枚の写真に写る羊牧場から「鼠」の手がかりを探し、札幌の街を一週間以上も徘徊する。街の描写も数多く作中に登場する。

「札幌の街は広くうんざりするほど直線的だった。僕はそれまで直線で構成された街を歩き回ることがどれほど人を磨耗させていくか知らなかったのだ」(村上,1982・下,30)

 その後の『ダンス・ダンス・ダンス』では「いるかホテル」が「ドルフィンホテル」に変わり、窓から見るオフィスの情景も様変わりしているが、作品をテキストにして札幌の街歩きをするのも一興だろう。すでに消滅したものや架空のものもあり、それを判別する作業もまた楽しい。この「いるかホテル」を探す観光行動は、村上春樹ファンの中でも実際に行っている人が多い。

消えた西5丁目陸橋の記憶

三浦綾子『続氷点』(画像:角川書店)
三浦綾子『続氷点』(画像:角川書店)

 さて、西5丁目陸橋の話に戻ろう。1965(昭和40)年に『氷点』でベストセラー作家になった三浦綾子は、旭川だけでなく札幌を舞台にした小説もいくつか書いている。『氷点』の続編である1971年の『続氷点』では、オリンピック前の札幌の街の風景が描かれているが、そのなかにもう消滅してしまった函館本線を跨いでいた西5丁目陸橋が登場する。この陸橋は鉄道で分断されていた札幌の南北を結ぶ重要な役割を果たしていた。

「二人は少し行って陸橋の欄干にもたれた。陸橋に並行して市電のレールが走り、その向う下はもう札幌駅のプラットフォームだった。つまり、陸橋は駅の構内を大きくまたいでいるのである。ホームはすすけた跨線橋にさえぎられて、その半分しか見通せなかった」

 また、伊藤整の『鳴海仙吉』は自叙伝的な側面を持つ小説だが、ここにも西5丁目陸橋が登場する。

「そのとき鳴海仙吉は駅の横手に当たっている陸橋の上に来かかっていた。目の下のプラットフォオムに着いている客車に、人が群がって乗り降りしているのが見える。それから待避線の方で長い貨車を機関車が引いていくと、その貨車の尻尾に片手でぶら下がった駅員が右手に持った紙片をふりまわしている」

もちろん、戦後間もない時期なので、下を通るのは蒸気機関車だ。仙吉はしばし陸橋の欄干に肘を突いたまま、東京にいる家族のことを思っていた。

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