文学散歩の魅力とは何か? 今でも読み継がれる岡山出身「内田百閒」の足跡を辿る【連載】移動と文化の交差点(9)

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内田百閒は、戦後の文学散歩の先駆者であり、『阿房列車』で無目的な鉄道旅を楽しんだ作家だ。彼は岡山を愛し、故郷の風景や記憶を大切にしていた。その足跡をたどることで、文学の魅力を再発見できる。文学散歩はコンテンツツーリズムの原点ともいえ、多くの人々が文学に興味を持つきっかけになることが期待される。

生家跡から見える岡山

第六高等学校跡。現在は岡山朝日高等学校(画像:増淵敏之)
第六高等学校跡。現在は岡山朝日高等学校(画像:増淵敏之)

 8月上旬に岡山を訪れた――という本題に戻る。

 JR岡山駅を下りて、生家跡へ向かった。百閒の家は造り酒屋で「志保屋」と呼ばれていた。彼が幼少期には裕福だったが、次第に家業が傾き、旧制中学時代には困窮するようになった。生家跡は岡山市内を流れる旭川を東に渡った古京町(ふるぎょうちょう)にあり、現在はマンションの工事が進んでいる。生家跡の碑を探すのに少し手間取ったが、近くの企業の社屋の前に見つけることができた。

 彼が通った旧制岡山中学は現在の岡山城内にあり、百閒の家からは徒歩圏内だった。旭川の東岸の土手からは、復元された岡山城の天守閣が見える。その後、彼は第六高等学校に通うことになるが、そこは中学とは反対方向にあり、彼の家から5分もかからない距離だ。現在の岡山朝日高校は、かつて第六高等学校があった場所だ。六高は岡山大学に引き継がれており、岡山朝日高校の敷地は県立高校としては広く、六高時代の建物もいくつか残っている。

 中学生の頃、百閒は文学に目覚め、『文章世界』という雑誌に小品を投稿して入選した。そして高校時代には、俳句に本格的に取り組むようになる。しかし、彼は東京帝国大学に進学するため、岡山を離れた。

 彼の墓は岡山朝日高校の裏手にある操山(みさおやま)の中腹にある安住院にある。実は、百閒の墓は東京にもあり、中野の金剛寺にその場所がある。ここには分骨されているそうだが、場所を探すのにかなり苦労した。主要な墓地にはなく、右手の石段を登った狭い範囲のなかにあった。墓探しにはこのように苦労することも多いが、敬愛する人物の墓を見つけた時の感動は格別だ。

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