高速道路「SA・PA」の形はなぜ美しいのか 没後70年、道路公団初代総裁が貫いた美学とは

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日本道路公団初代総裁の岸道三は、なぜ高速道路の美観を重視していたのか。その背景を探る。

戦後に産声をあげた道路関係4公団

滋賀県多賀町にある名神高速道路上の多賀SA。日本人建築家を代表する丹下健三が敷地計画から携わった。岸道三の顕彰碑もある。1963年ごろ撮影(画像:国土地理院)
滋賀県多賀町にある名神高速道路上の多賀SA。日本人建築家を代表する丹下健三が敷地計画から携わった。岸道三の顕彰碑もある。1963年ごろ撮影(画像:国土地理院)

 日本国内には、高速道路が網の目のように行き渡っている。2001(平成13)年に小泉純一郎内閣が発足すると、地方の高速道路が無駄な公共事業としてやり玉にあげられた。

 小泉内閣で問題視されたのは、高速道路の新規建設だけではなかった。事業体でもある日本道路公団の経営体質にもメスを入れ、日本道路公団は

・東日本高速道路株式会社
・中日本高速道路株式会社
・西日本高速道路株式会社

という3社に分割。また同時に、首都高速道路公団は首都高速道路株式会社、阪神高速道路公団は阪神高速道路株式会社、本州四国連絡橋公団は本州四国連絡高速道路株式会社へと改組された。

 これら道路関係4公団は戦後に産声をあげ、道路インフラの整備・拡張に寄与してきた。そのトップバッターが日本道路公団だった。1956(昭和31)年に発足した日本道路公団は、初代総裁に岸道三を迎えた。

 岸は東京帝国大学卒業後に民間企業へと就職。しかし、1938年に満洲国へと渡って南満洲鉄道(満鉄)へと入社する。満鉄は体裁上、民間企業だったが、満洲国という国家を政治的・経済的に支配下におく国策企業――というより、国家をしのぐ事業体だった。岸はそこで国家経営のノウハウを学んだ。

 戦後、焦土からの出発を強いられた日本は、再建策としてインフラの整備から着手。1954年に発足した鳩山一郎内閣は、まず最低限の生活インフラを確保するために住宅建設を始める。住宅建設を促進するべく、日本住宅公団が設立された。

 鳩山内閣が次に取り掛かったのは、道路インフラの整備だった。鉄道や道路は単なる移動手段ではなく、物を運ぶツールでもある。物流インフラが整備されなければ、経済は活性化しない。日本の再興も果たせない。そんな考えから道路公団が立ち上げられた。そして、初代総裁に岸が抜てきされた。

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