「B29を竹槍で落とせ」 東條英機は本当に“精神主義”の権化だったのか? その実像をひも解く
旧日本陸軍の精神主義を象徴する人物という印象が強い東條英機。その固定化されたイメージをひも解く。
航空軍備の転換

1943(昭和18)年6月、東條は陸相として航空軍備の超重点化を命じている。制空権が取れずに敗れたガダルカナルの反省を生かし、航空戦力の整備に力を入れることにしたのだ。
開戦当初のマレー航空戦を指揮した遠藤三郎が、物量に劣る日本の陸軍の航空戦力は戦闘機と爆撃機の2本立てではなく、戦闘機に絞るべきであるとの献策を行うと、参謀本部がいい顔をしないなかで、東條はこの策を採用し、戦闘機重視の政策を打ち出した。航空戦力に関する部分では、東條に一定の先見の明(めい)があったといえるかもしれない。
ただし、実際に航空機を増産しようとすると壁にぶち当たった。1943年になると航空機を作るために必要なアルミや石油などを日本に運ぶ船舶の損害が深刻になり、43年末の物資輸送量は、開戦前の企画院の見込みである月平均480万~500万tに対して、半分以下の215万tに落ち込んだ。一方で、陸海軍の統帥部は作戦用の船舶増徴を政府に再三要求していた。
これに対して、東條は商工省と企画院を廃止して1943年11月に軍需省を設置し、自ら初代軍需大臣を兼任した。1944年2月に絶対国防圏のトラックが空襲を受け、トラックが艦隊基地としての機能を失うと、航空機の配分をめぐって陸軍と海軍の対立が激しくなるが、こうした状況に対して東條は参謀総長の兼任を決意し、これを実現させた。
本書で著者は
「東條の何でも自分でやらねば気がすまない性格が、行きつくところまで行ったともいえる」(279ページ)
と述べているが、まさにそのとおりだといえよう。