「B29を竹槍で落とせ」 東條英機は本当に“精神主義”の権化だったのか? その実像をひも解く

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旧日本陸軍の精神主義を象徴する人物という印象が強い東條英機。その固定化されたイメージをひも解く。

派閥抗争

1940年、第2次近衛内閣の閣僚らと(画像:毎日新聞社)
1940年、第2次近衛内閣の閣僚らと(画像:毎日新聞社)

 その後、派閥対立などもあって東條は中央を追われ、その間に永田が皇道派の相沢三郎に斬殺される相澤事件が起こった。東條は、永田と同じ運命をたどらないようにという林銑十郎陸相の配慮もあって、関東憲兵隊司令官として満州に渡っている。

 1937(昭和12)年、東條は関東軍参謀長に転じ、満州の資源開発や軍需工業の発展に力を尽くした。なお、日中戦争拡大の中で失脚した石原莞爾(かんじ)が関東軍参謀副長として東條の部下になるが、満州国の運営をめぐる対立で2人の不和は決定的になった。

 1938年、東條は陸軍次官となるが、ここでは日中戦争の早期講和を目指す参謀本部の多田駿参謀次長と対立し、結局、けんか両成敗という形で、同年12月には多田は第三軍司令官、東條は航空総監に転出している。

 航空総監に転出した東條だが、そのイニシアチブによって1939年の修正航空軍備充実計画(二号計画)が策定され、陸軍航空の強化が急ピッチで進められた。

 1940年に東條は「航空作戦綱要」を作成している。それまでの航空部隊の用法が航空撃滅戦に偏っていたものを修正し、航空撃滅戦と地上作戦への協力を並置したもので、近代的な航空戦の考えからは後退したものともとられているが、陸軍内での理解を得るためのものだったとも考えられる。

 航空戦力への注目というと、なんといっても石原莞爾が思い起こされるが、東條も航空総監就任時の写真ニュースで

「世界に冠絶する空軍をこしらえなければならないと思っている」

と語っており、さらに、学生鳥人大会にも出席して航空総監賞を贈るなど、航空戦力の重要性を認識し、それを国民にもアピールしようとしていた。

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