「B29を竹槍で落とせ」 東條英機は本当に“精神主義”の権化だったのか? その実像をひも解く
旧日本陸軍の精神主義を象徴する人物という印象が強い東條英機。その固定化されたイメージをひも解く。
陸大挑戦と父の影響

東條英機は陸大の受験に2度失敗している。3度目の挑戦で入学したが、陸大を首席で卒業した父のような優秀さは東條にはなかったのかもしれない。ただし、東條は「努力即(すなわち)権威」という言葉を座右の銘にし、陸大を56人中11番という優秀な成績で卒業している。
東條は陸大卒業後、ドイツに留学し、帰国後は陸大の兵学教官に就任している。本書では同時期に教官をしていた梅津美治郎(よしじろう)との比較が出てくるが、梅津は教官としても上司としても相手に考えさせるように行動したが、東條は教え込むか自分でやってしまうという特徴があったという。
軍人としての東條のキャリアを見ていくと、陸軍から長州閥を排除し、総力戦体制を築こうとした永田鉄山との関わりが深いことがわかる。東條は、永田が小畑敏四郎や岡村寧次と長州閥の排除や総動員体制の確立を目指して結んだ「バーデン・バーデンの密約」にも遅れて参加しており、さらに二葉会や一夕会といった青年将校のグループにも永田とともに参加している。
東條は1928(昭和3)年に陸軍省整備局動員課長となっているが、初代動員課長が永田であり、東條はその後任として兵器や飛行機、自動車などをいかに動員するかという問題に取り組んでいる。満州事変が起こると、作戦課長だった永田はこれを抑えようとするが、この動きには東條も同調している。
永田は総力戦体制の構築を目指していたが、東條もこの動きに沿って動いていた。東條は、第一次世界大戦で登場した航空機という兵器の重要性と航空機の攻撃から都市を守ることの重要性を説き、各地で講演を行ったり、パンフレット作成を行ったりしている。