「B29を竹槍で落とせ」 東條英機は本当に“精神主義”の権化だったのか? その実像をひも解く
旧日本陸軍の精神主義を象徴する人物という印象が強い東條英機。その固定化されたイメージをひも解く。
航空戦力の懸念

この後、東條は陸軍大臣(陸相)に就任する。陸相になってからも東條は航空戦力へ関心を持ち続け、米国での新型機の開発や日本の防空体制の不備、海軍機に比べて陸軍機の飛行高度の低いことなどを問題視している。
ちなみに東條陸相といえば、
「生きて虜囚の辱を受けず」
で有名な「戦陣訓」を出したことで悪名が高いが、前任者の板垣征四郎陸相のときに作成が始められており、必ずしも東條の考えを反映したものではない。
1941(昭和16)年10月に首相に就任した東條は、対米英戦を始めることとなった。東條は戦争の勝利に必ずしも自信があったわけではなかったが、戦争が始まると国民に対しては総力戦の指導者として振る舞おうとした。
1942年8月からガダルカナルの攻防が始まると、当初は断固戦い抜くことを主張していた東條も、船舶の損傷が激しくなるとともにその方針を転換させていく。
船舶の要求をめぐって田中新一と東條の腹心の佐藤賢了軍務局長は殴り合いを演じ、さらに田中は東條に暴言を吐いて更迭された。陸相兼任の東條は統帥部の作戦に口出しをすることはできなかったが、輸送船などの船舶の割り当てをしないことで統帥部にガダルカナルでの作戦続行をあきらめさせた。