臨海地下鉄新線構想、そもそもなぜ晴海に「鉄道路線」が作られなかったのか? 何度も見放された不遇の歴史とは

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晴海エリアで課題となっているのが、公共交通網の整備である。なかでも2022年東京都が発表した「臨海地下鉄(仮称)」計画は地域の期待を集めている。

晴海への鉄道接続計画

晴海町開発利用計画図。『東商』1957年12月号より(画像:昼間たかし)
晴海町開発利用計画図。『東商』1957年12月号より(画像:昼間たかし)

 東京商工会議所の会報『東商』1957(昭和32)年12月号で、当時の東京都港湾局長は、こう記している。

「国鉄(注:専用線は国鉄が設計し港湾局が管理)としては将来中央市場、汐留駅迄延したい意欲がありその点を考慮して鉄道敷地が織り込まれている」

 この記事では「晴海町開発利用計画図」として、具体的な線路の敷設計画が示されている。晴海の機関区(現在の晴海BRTターミナルあたり)から伸びた線路はカーブして新月島川あたりから、築地方面へ向かう計画だったようだ。また、

 1962年に東京都が発行した『東京港史』には汐留付近で国鉄と接続するための具体的な路線図が描かれている。現在の地図に当て嵌めると、晴海の黎明橋公園附近からカーブして、勝どきを横切り、築地市場の地下を通って国鉄と接続する構想だったようである。もしも、この計画が実現していれば、現在の晴海BRTターミナルは「JR晴海駅」となっていたと考えられる。

 この鉄道計画は貨物に重点を置く形で、かなり具体的に構想されていたようだ。前述の『東京港史』には、以下の記述がある。

「鉄道については、将来東京湾幹線臨海鉄道が新港湾埋立地を通過するものと考え、必要な操車場・貨物駅を配置し、都心部における貨物駅の容量を軽減せしめるとともに、将来はこれら既成貨物駅の新埋立地への移転をも考慮する」

 これらの鉄道は晴海を貨物港として発展させる前提で構想されたものだが、もしも実現していれば利便性はずっと高まったはずである。晴海線開業時の新聞報道では『朝日新聞』『毎日新聞』がいずれも、

「東海道本線・常磐線と接続する予定」

であることに触れている。しかし、どういうわけか計画は立ち消えとなってしまった。

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