臨海地下鉄新線構想、そもそもなぜ晴海に「鉄道路線」が作られなかったのか? 何度も見放された不遇の歴史とは
海辺の僻地から新都心へ

現在の晴海が「月島4号地」として進められた埋め立てが完了したのは、1931(昭和6)年のことだ。この広大な土地で最初に計画されたのが、東京市庁舎の建設であった。
当時、東京市庁舎は丸の内の東京府庁舎(後の都庁、現在の東京国際フォーラム)を間借りしたもので、部屋が足りず周辺の建物に分散して事務を行っていた。この煩雑さを解消するために独自の東京市庁舎が計画されたのである。
当時、晴海では1940年に開催される万国博覧会の会場とする計画も本格化していた。国際的なイベントを経て、臨海部は新都心となることが予測される。ゆえに、晴海は好立地とされた。
1933年に東京市役所が作成した「東京市庁舎建設敷地の決定」という資料によれば、現在の晴海トリトンが建つ敷地に市庁舎を建設。アクセス鉄道として、晴海通りから伸びる地下鉄、豊洲方面から晴海を経由して築地へと向かう線路が記載されている。この計画が実現していれば、晴海は二路線でアクセスできる好立地になっているはずだった。
しかし、1934年には市庁舎の設計案のコンペまで行ったにも拘わらず計画は頓挫してしまう。当時の月島4号地は東京市のなかでも海に面した僻地である。そんなところに市庁舎ができては不便極まりないと猛反発を受けたためだ。実質、当時の京橋区を除けば、この移転案に賛成する地域はなかった。
月島4号地の地名が「晴海町」と決まったのは、市庁舎移転案が頓挫してからである。市庁舎移転に続く晴海の発展可能性は万国博覧会であった。このとき、アクセス鉄道を建設する案は出ていない。博覧会会場へは、晴海通りを歩き勝鬨橋、黎明橋を渡ってアクセスする計画となっていたからだ。
しかし、1937年になり戦争が長期化したことを理由として、博覧会は開催延期を決定する。この後、晴海の開発はまったく停滞する。
わずかに、完成していた万博事務局の建物を利用した「東京第一陸軍病院月島分院(戦災で焼失)」のほかは、広大な空き地が広がっていた。空き地は戦争中に高射砲が設置されたほかは、まったく手つかずのままで、月島の住民たちが畑として利用していたという。
戦後になると、空き地の多くの部分を米軍が接収したこともあり(現在の中央清掃工場附近に飛行場を設けていた)、返還が始まった昭和20年代後半まで開発は手つかずのままだった。