臨海地下鉄新線構想、そもそもなぜ晴海に「鉄道路線」が作られなかったのか? 何度も見放された不遇の歴史とは
晴海エリアで課題となっているのが、公共交通網の整備である。なかでも2022年東京都が発表した「臨海地下鉄(仮称)」計画は地域の期待を集めている。
1950年代の晴海開発

ただ、東京都の晴海開発への意欲は極めて高かったようだ。
例えば、1956(昭和31)年には東京国際見本市会場が開設し、翌1957年には日本住宅公団が晴海団地を造成している。このときには、まだ飛行場部分は返還されていなかった(1957年12月1日に返還)。そうした状態でも開発を進めたあたり晴海は有望な開発地と目されていたことがわかる。
晴海に新たな鉄道敷設計画が持ち上がったのは、この時期からである。晴海の全面返還以前から晴海では鉄道計画が進んでいた。これは東京港一体に張り巡らされていた東京都港湾局専用線の新たな路線で、越中島方面から豊洲の手前で分岐し晴海へ至る貨物線であった。この路線が「晴海線」としなり開通式が行われたのは1958年5月であった。
この時点で晴海線で将来旅客を扱うことは検討されていたようだ。当時の新聞記事には、以下のような記述も見受けられる。
「現在でこそ同フ頭は貨物線の発着がほとんどを占めるが、将来国際貿易センターが完成すれば当然貨客船も横付けされ、観光客の出入りも激しくなるので、この貨物線に電車を走らせ、一般の利用をはかるねらいもある」(『朝日新聞』1957年11月6日付朝刊)
では、実際にこの構想にはどれほどの現実性があったのか。上記の記事では旅客化の前提として汐留方面への延伸、接続が必要であることも指摘している。