ドラレコが普及しても、「当たり屋」犯罪がなくならない根本理由
自動車普及と「当たり屋」の増加

1920年代には、フォードとゼネラルモーターズも日本市場に参入した(1925年、1927年)。関東大震災(1923年)の復興過程で自動車の有用性が認識され、保有台数が大幅に増加した。その結果、組織的な当たり屋も横行するようになった。
1926(昭和元)年には自動車保有台数は、4万353台まで増加している。この年の『朝日新聞』1926年11月25日付朝刊には、3人組で多額の金銭をせしめた当たり屋グループの犯行の模様が報じられている。
これによれば、被告の男は相棒と組んで
「人ごみで徐行している自動車にわざと触れて倒れる」
という手法で金銭を得ていた。
犯行は15回にも及び、最大409円を得たと記事にはある。記事では、男は裁判の席で
「昨年の夏、浅草の富士館で見た活動写真にちょうどそうした場面があったので考えついた」
と述べ、「家族がいるので懲役は困る」と裁判官を泣き落としにかかったことまでが報じられている。
社会の変化と犯罪の進化は時代の流れを映す鏡であり、互いに影響し合っていることがわかる。
戦後、自動車は昭和30年代半ばから急速に普及し始め、1966(昭和41)年には自動車の保有台数は812万3096台に達し、それにともなって当たり屋の犯罪も増加した。
特に注目されたのは、1966年9月に発生した当たり屋夫婦の事件だ。この事件は、夫婦が10歳と6歳の子どもを自動車にぶつけさせる手口で示談金を詐取したというもの。この夫婦は子どもたちを連れて、25道府県を転々として38回もの犯行を重ねた。同様の犯行が繰り返されたために事件は発覚し、警視庁は準広域事件として夫婦を指名手配した。
夫婦は、テレビの通報を見た人からの情報により大阪で逮捕された。『朝日新聞』同年9月3日付の朝刊は「長男の右手ヒジには、車にぶつかった時の傷がなまなましく」と報じ、全国に当たり屋という犯罪を知らしめた。1969年の大島渚の映画『少年』は、この事件に発想を得てつくられた作品である。
57年前の事件だから、子どもは存命であれば、現在63歳と67歳ということになる。