銀座の上を走る「東京高速道路」の謎! なぜ建設時に境界線が引かれなかったのか
反対運動と水上デモ

この問題は東京都議会だけでなく、国会でも取り上げられ、与党が精力的に追及している。以下は、1958(昭和33)年の衆議院建設委員会での久野忠治衆議院議員(自民党)の発言である。
「当時の東京都の副知事―名前はちょっと忘れましたが、副知事はこう答えました。倉庫もしくはガレージに利用する、こう言ったのであります。万一その利用目的が変った場合にはどういう処置をとるかという質問に対して、撤去を命ずる、こう言いました。(中略)ところが今日でき上りましたものを拝見いたしますると、堂々たるキャバレーができたり、あるいは飲食店ができたり、事務所ができたり、倉庫というのは名ばかりで、今ガレージなどというのは名目的に一、二カ所あるだけでございます。(中略)そうして莫大な利権を握って、東京都の交通難を緩和するという美名に隠れて利権のちまたにこれがなろうとしていることは、衆目の見るところであります」(1958年4月10日、衆議院建設委員会議事録)
今回、筆者は東京高速道路の担当者から文書で回答をもらった後、電話で少し話をした。その際、筆者が
「戦後のドサクサに紛れて建設されたのでは……」
と切り出すと、担当者は即座に
「いえ、法律に則って建設されました」
と答えた。
確かに、都議会で埋め立て議案が可決された後に工事は進められ、法律に違反していたわけでもない。しかし、記録を見れば、道路工事の真意は当初から土地を埋め立てて貸しビル業の利益を上げることにあったことは明らかだ。
戦後の混乱期だからこそ強行できた事業であったことは間違いない。当然、計画期間中には中央区や千代田区で強い反対運動が繰り返され、国会への陳情も行われた。こうして「戦後のドサクサ」のなかで、各区の境界を議論する余地もなく、強引に埋め立て計画が進められ、既成事実化が急がれた。
疑惑に包まれた東京高速道路への反対運動は激しく、工事中に外濠にボートを浮かべて行われた「水上デモ」の記録も残っている。しかし、1959年6月の一部開通後、完成とともに反対運動は縮小していった。
1955年には「手打ち会」が開かれたことが記録されている。1955年4月1日付の『都政新報』によると、同年3月25日、東京都と会社、反対運動に関わっていた地元商店主らが銀座で会合を開き、安井知事のあいさつと納めの拍手で閉会したという。
どのような状況、条件で手打ちが行われたのかは、関係者が亡くなった今となっては定かではない。ただ、反対運動に関わった人々が、道路の下に店を持つようになったことが当時の文書からにおわされている。
これで、東京高速道路に対する地元の反対運動はいったん終息した。しかし、この強引な工事は後年、その爪痕を残すことになる。